今夜、ちゃんと つかまえて

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今夜、ちゃんと つかまえて

 かこん。  指定した缶を吐き出した自動販売機が、ひと仕事を終えゴウーンと音をたてる。    寮の共有スペースで「あったか〜い」ものを飲むのが俺の日課だ。今夜は、つぶ入りのコーンポタージュ。  ちらり。  女子寮の方に視線を向ける。  ない。絶対ない。  あの子は、こんな時間に共有スペースに来るようなキャラではない。       学校の敷地内にある寮は、上空から見ると『アルファベットのH』のような形をしている。女子寮棟と男子寮棟に分かれていて、それぞれ真ん中辺りに二棟を繋ぐ広めの通路があり、共有スペースになっているのだ。  壁際には新聞ラック、自販機が並んでいて、中央にはテーブルと椅子。窓際にソファが置かれていて、そこが夜は健全な逢引きスポットになる。  逢引きというものは、健全ではないのでは?  などど、ツッコミを入れてはいけない。  ここはその名の通り、いつ誰が通るかわからない場所。    山といっていいほどの郊外にあるこの寮は、近くにコンビニもなく、寮生たちは市街地のことを「下界」と言っているほどだ。  この話を聞いた何も知らない中学時代の同級生は「監獄じゃねーか」だの「修行の山籠りみたいだな」などと言うが、実際にはそれほど厳しいものではない。   異性の寮への立ち入りは禁止されているが、この共有スペースで男女が雑談や勉強をすることは黙認されている。実家に住んでいたら、こんな夜遅くまで一緒にいられないだろう。ちなみに消灯時間は午後十一時。女子高生の平均門限時間は知らないが、午後十一時よりも早いのではないだろうか。    消灯時間を過ぎてから無闇に出歩くことは禁止されているが、小腹が空いたり、水分補給をしたくなるのは生理現象なので、夜中でも自販機は問題なく使える。  ただし、消灯後は共有スペースの冷暖房が切られるため、長居は出来ない。  それでも、偶然を装って夜中ここで言葉を交わす男女を毎晩見かけるのだ。  監視カメラがあるという噂もあるため、あれやこれやおかしなことは出来ないが、直接話が出来るだけでも充分ではないか。  いや、俺に彼女はいないから、その辺りはよくわからない。    彼女持ちの友人は、会えるだけなんて生殺しだと言う。そんな生殺しすら味わってみたいと思うくらいには、彼女が欲しいと思う。  でも、誰でもいいわけではない。  ふと窓の外を見る。  満月か。    カップルと思わしき男女たちが「偶然だね」「なんか眠れなくて」「俺も……腹減ってさ」などと白々しいセリフを吐きながらソファへ向かい、ふたりで数分間過ごし、それぞれの部屋へと戻っていく。    ひと組、ふた組……今日は四組のカップルの「偶然だね」(以下略)という大根芝居を見てしまった。   俺もそろそろ部屋に戻るか。    ふと、何か妙な気配を感じ、思わず窓の外へ目を向けた。  影のようなものが動いている。 「……獣?」  電気柵があるため、敷地内に獣が入ってくることは無いと聞いているが……それなら、寮生だろうか。この時間の外出は規則違反だが。  いや、違う。  子供だ。あの大きさだと幼稚園児くらいだろうか。  しかも、女の子……   「マジかよ……」  いやいやいやいや、俺はそんなもの信じないからな。  どうせ寮生の誰かが、ふざけてるんだろう。  そう自分に言いきかせ、ゆっくりと後退りした。  なんとなく、後ろ姿を見せてはいけない気がするからだ。  窓の外の、その女の子から目を逸せない。  女の子はどんどん近づいてきて、やがて窓の前で立ち止まると、コツンと窓を叩いた。  俺は妙な汗をかきながらも、それを悟られまいと唾を飲み込むと、女の子を睨みつけた。目が合う。    俺は息を呑んだ。    写真でしか見た記憶がない、姉に少し似ているからだ。  しかも、どことなくあの子にも似ている……?    それを認識した次の瞬間、目を開けていられないほどの明るい光に包まれた。  気がつくと、俺は寮の外どころか、心当たりがない場所に立っていた。  しかも、夜だったはずなのに、頭の上には太陽と青い空。  そして、どこまでも続く、草原。  先ほどの女の子がこちらを見つめている。  白いワンピースに白い靴。 「ちゃんと、つかまえていて」  女の子はそう言うと、俺に手を伸ばした。  意味がわからないし、こんな状況で得体の知れない女の子の手を取るなんて、何が起こるかわかったもんじゃない。怖すぎる。  そもそも、ここはどこなんだ。現実なのか夢なのか、別の世界なのか。   「今夜なの。今夜しかないの。だから、ちゃんとつかまえて」  「今夜……?」    俺が首を傾げると、女の子は俺の手を取った。ひんやりとした手で、背筋に妙な汗が流れる。情けない声を上げなかっただけマシか。 「今夜しかないの。チャンスは」  見た目は幼女だが、口調はどこか大人びていて、それがこの子の異質さを際立たせている。  視線を逸らすことができない。  女の子もじっと俺を見つめている。    なぜだろう。胸の奥が痛い。  この子が姉に似ているからだろうか。     そう思った次の瞬間、音もなく空が崩れ、眩し過ぎる光に包まれた。    物心ついた時は、姉はこの世にいなかった。  母は突然娘を失ったショックで心を病んでしまったそうで、俺は父の実家に預けられた。母とはそれ以来、会っていない。  結局、数年後に両親は離婚。  聞いた話では、母は沖縄に移住し、今では別の家庭を持っているそうだ。まったく寂しくないと言ったら嘘になるが、会いたいとは思わない。母と過ごした記憶はないが、ないからこそ、彼女が今幸せならそれでいいと思ってる。  父はあまり連絡してこない。会う時は気まずそうにしているが、俺の学費は全額払ってくれるし毎月お小遣いも振り込まれるから、似たような境遇の子達に比べたら俺はかなり恵まれている。  祖父母も、同居している叔母夫婦、いとこたちも、俺によくしてくれるが、俺は早く家を出たかった。  だから、家は市内だけど寮に入ったのだ。    もしも姉が生きていたら──そう思ったことは何度もある。  もしも姉が生きていたら、きっと俺も両親も、今とは違った生き方をしていたはずだ。  流行りの物語みたいにタイムリープして姉の死を回避できるわけないし、受け入れていくしかない。それくらいわかってる。  もしも、パラレルワールドがあるとしたら、別の世界の俺は、今どうしているのだろう。  もしも、いきなりパラレルワールドの俺と入れ替わったりしたら……?  そんなことを、ふとした時に考えてしまう。   今と違う環境、今とは違う人生の、別の世界線を──    嬉しそうに赤ん坊の俺の頬をつついている女の子と、それを見守る両親の写真は、今はどこにあるのかもわからない。        「──はらくん、春原(すのはら)くん!」 「……え、あ、あれ?」     今のこの光景は、現実だという感覚はあるが、こんな都合の良い状況は夢かもしれない。   「こんなところで寝てたら風邪ひくよ」    密かに気になっている、あの子が俺の顔を覗き込んでいるからだ。 「あー、いや……俺、寝てた?」 「うん。なんか、ちょっと苦しそうだったから、起こしちゃった。それに、このままじゃ風邪ひくし……」 「あー、うん、ありがとう」 「ううん」    彼女の手には、ノンカフェインの温かいお茶の入ったカップが握られている。   「……眠れないのか?」 「うん、まぁ、そんなとこ」 「そっか。俺もなんか眠れなくて……って、さっき寝てたけど、あれはそうじゃなくて……コンポタ飲んでたら、なんか寝落ちしたっていうか」 「コンポタ、美味しい?」 「あー、うん。結構好き」 「そうなんだー。じゃあ、今度飲んでみるね」  うわ。なんだろこの奇跡。  この子とこんなに長く会話できるなんて。  これこそ、夢なのではないだろうか。  夢といえば、あの女の子……今夜しかチャンスないとか、そんなようなこと言っていた気がする。   まぁ、つかめるものはつかんだ方がいい、とはよく聞く。たったひとつの選択が、その後の人生を決めてしまうこともあるっていうし。    普段の俺は、自他共に認めるヘタレだ。この子の前ではいつも空回りしてしまう。  だが、この時は、なぜか自然に行動できた。  部屋に戻ろうとした彼女を引き留める。   「あ、あのさ、その……来週の日曜、従姉妹の誕生日でさ、プレゼント一緒に選んでほしくて……今週の土曜か日曜、下界に一緒に行ってくれないかな」 「んー、いいよ。私も下界に用事あるから、それ終わったらでいい?」 「ありがとう! 時間はそっちに合わせるよ」 「というか、私でいいの?」 「うん、その……私服の趣味、従姉妹とちょっと似てる気がしてさ。センス合いそうだと思って」 「そう?」 「うん」     まさか本当にこの夜がきっかけになるなんて、この時は想像もしていなかった。       なんやかんやあって、俺たちは彼氏彼女の関係になり、数年後に結婚。    娘が三歳になった夏の日、高校卒業まで過ごした町を家族で訪れた。  父の実家に挨拶したあと、ついでなので母校にも顔を出す。恩師に挨拶をして寮の近くを見て回った。    娘は「ここ、しってる!」と何度も妻と俺に言ったが、娘を連れてきたのは今回が初めてだ。  たぶん、アルバムの写真を見て、行ったつもりになっているのだろう。俺たちはそう思っていた。    疲れたのか、眠いのか、ふらふらとした足取りになってきた娘をおんぶする。  すぐに寝息を立てはじめたが、ふと耳元でこう言ったのだ。  寝言とは思えない、三歳児とは思えない明瞭さで。 「ちゃんと、つかまえてくれてありがとう」  俺は息を呑んだ。    普段は忘れかけているが、満月を見ると思い出す、あの不思議な夜の出来事。  あの時の女の子は、まさか──      
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