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月夜と青
「はあぁ〜〜……」
少女は一人、盛大なため息をついた。
たった一つの電灯が虚しく照らす見晴らし台にいる彼女は、柵の上に腕を乗せ、暗い表情で俯いていた。
小さな光が飽和している、眼下の街。あの光一つ一つに誰かの幸せが宿っているんだろうなと考えると、今ここにいる自分がひどく惨めに思えてくる。
ざぁ、と木の葉を揺らした風が、そのまま少女の髪と制服のスカートを揺らす。そんなに強くない風なのに、体がじわりと冷えていく感覚がした。
ぎゅうと、服の肘の辺りを握りしめる。視界がじわりと滲んで、唇を噛み締めた。
ーーその時。
「おや、先客がいたようだね」
「ーーえ?」
不意に、左の方から声がした。呆けた声と共にそちらを見ると。
「わぁあっ!?」
少女の目と鼻の先に、一人の男が立っていた。すぐさま後ろに飛び退いた少女を見て、男は楽しそうにくすくすと笑う。
な、何だこの人。今の今まで、足音一つ聞こえていなかったはずなのに。
一体いつの間に? しかもどうやって?
まるで、瞬間移動でもしてきたかのようにーー
「こんばんは、お嬢さん。
今夜は良い夜だね」
バクバクと暴れる心臓の前でぎゅっと手を握りしめ、警戒しながら視線を向けてくる少女に対し、男はにこりと微笑んで少女に挨拶をした。
その瞬間、思いがけず少女の心臓がドキンと跳ねた。その笑顔が、これまで見たどの人間のものよりも美しかったからだ。
驚きと不審感で気づいていなかったけれど、この人ーー俗に言うかなりのイケメンだ。
白い肌に、切れ長の目。すっと通った鼻筋に、笑みを湛える薄めの唇。「麗しい」という表現がしっくり来る、端正な顔立ちだ。
そして、夜風に柔らかく揺れる青みがかった髪の毛と、白線の竹の模様が入った和服のような青い羽織は、一目見ただけで印象的だ。
こんなに綺麗な男の人がいるんだーーと感動に浸っていたら、ふと、男が自分を見て目を瞠っていることに気がつく。
「……な、何か……?」
「……いいや、なんでもないよ」
男は否定した後、すぐにまた笑顔を見せた。その様子に違和感を覚えたものの、追求するのも変な気がして黙り込む。
「こんな時間に一人で、どうしたんだい?」
男が穏やかな声で少女に尋ねると、途端、少女は露骨に顔をしかめた。
「……優しい言葉で誘って、私をどこかに連れて行こうって魂胆ですか」
ジロリと睨むように男を見る少女。男は一瞬ぽかんとして、すぐに吹き出した。
「ぷっ、あはは!
確かに、この状況じゃあ怪しまれても仕方ないよね」
楽しそうに笑う男に対し、そんなに笑う要素があっただろうかと若干引き気味の少女。本当に怪しい人なのかもしれないと疑ってしまう。
「ごめんね、そういうつもりはなかったんだ。
ただ、君が悲しそうな顔をしていたから、気になってしまって」
「!」
男の言葉に、気まずくなってふいと顔を逸らす。いつから見られていたんだろうか。今にも泣きそうな顔をしていたことを思い出し、顔が熱くなる。
「あ、もちろん無理に話す必要はないよ。僕のこと、まだ信用できないだろうしね。
……だけど、全く知らない相手にだからこそ、話せることがあるんじゃないかと思ったんだ」
……自分が怪しまれている自覚はあるんだ……と密かに思いつつも、男の優しい声と微笑みは、少女の冷えた心を温めるには十分だった。
「…………なんか……全部、嫌になってしまって」
ポツリと、俯きがちに呟いた。途端、治まっていた視界の滲みが一気に再来して、ぽたた、と足元に雫が落ちた。
少女は慌ててぐいと涙を拭い、見晴らし台の柵の端まで移動した。電灯の光がギリギリ届かないこの位置ならば、泣き顔を見られずに済むと考えたのだった。
「い、いきなり意味わかんないですよね、すみません。
ただ、家とか学校とか、色んなことで悩んでただけなんです」
自分でもなぜかわからないけれど、必死に取り繕うように言葉を紡いでしまう。
口うるさい両親。
冷ややかなクラスメイト達。
敬意を抱けない教師達。
楽しくもない勉強。
味気ない毎日の繰り返し。
希望など見えない将来。
そんなことが頭の中をぐるぐる回って、感情までもが渦を巻き始めていく。
なんで、こんなに辛いことばかりなのだろう。
なんで、こんなに苦しんでいるんだろう。
もうずっと、真っ暗闇の中を歩き続けているような感覚がしている。何も見えない、何も聞こえない。出口を探していくら藻掻いても、手は空を切るばかりで。
「……もう、消えてしまいたい……」
涙と共に、掠れた声が本音をこぼした。
今初めて会った人に対して、なんて言葉を吐き出してしまっているのだろうと思った。しかし、一度溢れ出した感情を止める術を、少女は知らなかった。
服の胸元をぎゅうと握りしめて体を震わせる少女の姿をしばし見つめていた男は、静かに口を開いた。
「……そっか。 それならーー」
それに続いた言葉を聞いた少女は、涙もそのままに顔を上げた。
「私と一緒に来るかい?」
「……え?」
一瞬遅れて、少女が呆けた声を出す。男はにこっと笑んで続けた。
「実は僕、この世界の人間ではないんだ」
「ーーはい?」
一瞬固まった後、少女は反応に怪訝の色を乗せる。その想いを知ってか知らずか、男はくるりと振り返って夜空を指差した。
「あの月が、僕の住む世界への入口なんだ」
「……月が、入り口……?」
訳がわからず、困惑する少女。男は笑みを浮かべたままだが、その瞳に冗談の要素は見えず、混乱は増していく。
「幸いにも、今宵浮かぶは中秋の名月。
一年の中で最も明るく、大きく、そして美しい月だ。
普段は僕でも行き来に苦労することがあるのだけれど……この月ならば、君でも通り抜けるのは容易だろうね」
まるで月を掴まんとするように手を掲げる男の姿は、まるで演劇の一場面のようだ。
その手につられて、少女も月を見上げる。確かに、今夜が中秋の名月だとニュースで言っていたような気もするが、記憶は曖昧だ。
しかし、遥か遠い空に浮かぶ月は、まるで目前にあるかのような存在感を放っている。その不思議な力に、引き込まれるような感覚さえ覚えた。
「あちらの世界に行けば、今君が抱えている悩みも、苦しみも……全て、忘れられるよ」
「……っ……」
流し目の微笑みと共に囁かれた言葉に、少女の心臓がドクンと跳ね上がる。
男の話は、普通に考えればとても信じられるものではない。しかし、男の浮世離れした外見や放つ雰囲気、そして優雅な立ち居振る舞いは、彼が異世界人であることを立派に証明しているような気がしてならなかった。
男はゆっくりと歩みを進め、少女の前で足を止める。そして、すっと手を差し出した。
「どうだろう。
私と一緒に、来るかい?」
男の再度の問いかけに、少女はひどく狼狽した。男の頭上には、月が光り輝いている。
「ーーやっぱり、連れて行こうとしてるじゃないですか」
「あはは、確かにそうだね」
誤魔化すように悪態をつく少女に対し、男はやはり楽しそうに笑って続けた。
「もちろん、無理にとは言わない。 だけど、もし君が望むのなら……僕が君を、ここから連れ出してあげる」
ーーもし今、ここから逃げ出せるのなら。
何度、考えたことだろう。叶うならこんなに幸せなことはないと、いつも思っていた。
この人の手を取れば、それが本当に叶う。
こんな最悪な世界と、さよならできるーー
「…………」
ーー手を、伸ばしかけて。
「…………ごめんなさい。
私は……そちらには行けません」
苦しげに言葉を吐き、少女は男に頭を下げた。
ーー確かに、嫌なことだらけの毎日だ。
辛くて苦しくて、全てを投げ出して逃げてしまいたいと、何度思ったかわならない。
……けれど。
脳裏に浮かぶのは、色鮮やかな記憶の欠片。
体調を崩した時、看病してくれた親の手の温かさ。
いつも隣のクラスから会いに来てくれる、たった一人の友人の笑顔。
校内で会う度に声をかけてくれる、非常勤の先生の優しさ。
辛いことで上書きされていつも忘れかけてしまうけれど、今の私にとってとても大切なものーー失いたくないものだ。
行けないーーいや、違う。行きたくないのだ。
最低で最悪な世界だけれど、数少ない愛おしいものが、確かにここにあるから。
「……そうか。
君はまだ、この世界にいたいんだね」
男の言葉に、少女は頷く。
辛いことばかりだけれど、私はまだここにいたいんだと、男の言葉で再認識する。
「はは……どうやら私、まだこの世界に未練があるみたいです」
自嘲気味に言葉をこぼした少女に対し、男は一瞬きょとんとしたが、すぐに「良いんじゃないかな」と笑って返す。それに安心したのか、少女は嬉しそうに笑った。
「……私、そろそろ家に帰ることにします」
今自分がここにいて良い時間ではないことを理解していた少女は、冷静になって帰宅することを選んだ。男は「そっか、わかった」と頷き、そしてこう言った。
「もしまた全てが嫌になった時は、ここにおいで。
月の出ている夜なら、僕はいつでもここにいるから」
「……はい。
あの、その……色々と、ありがとうございました」
少女がお礼を告げると、男は優しい微笑みを浮かべた。その美しさにドギマギしつつ、では、と男に別れを告げる。
また彼に会いたいような気もするが、『また全てが嫌にな』るような状況は御免だから、もう会わないのが正解なような気もする。
それに、『月の出ている夜なら』という限定的な表現……やはり男の話は本当なのだろうか?などと色々な考えを巡らせつつ、少女は早足で帰路についたのだった。
「ふふ、未練かぁ……」
少女がその場を去った後。男は柵に背を預け、月を見上げていた。唇はいかにも楽しそうな弧を描いている。
「出会っちゃったから良いかなぁと思ったけど……まだ、その時ではないようだね」
さあぁ…と夜風が男の髪と羽織を揺らす。それを追って、少女が去って行った方に目を向ける。もうその姿はないが、男の脳裏には少女の嬉しそうな笑みが残っていた。
「良いよ、君の気が済むまで待ってあげる。
どうせいつか、“その時”はやってくるんだから」
柵から体を起こし、歩みを進める。月明かりの下で立ち止まり、夜空の月に手を伸ばす。
「だからそれまで、精々今の生を楽しんでくださいよ。
ねえーー」
振り返り、笑う。
「ーー姫様?」
ビュウと、一際強い風が駆け抜ける。そして気がつくと、男の姿はもうどこにもなかった。
一人残された電灯が、寂しそうにジジ…と音を立てていた。
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