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ピピッ、ピピッ、
ぼくは布団の中から手を出し、目覚まし時計を止めて目をこすった。部屋の中は暗かった。
「トキオ、起きなさい。7時よ」
母がぼくの部屋に入ってきて、明かりを点けた。
「ほらトキオ、早くしないとお父さんが……」
「ただいま」
玄関の方から低い声が聞こえた。父が会社から帰ってきた。まずい。ぼくは布団から飛び出して寝巻を脱ぎ、服を着た。今は7時は7時でも、夜の7時だ。
「急いでね」
母は小さな声で言うと、父を出迎えるために部屋を出た。
「トキオは? 今日は学校に行ったのか?」
さっきよりもっと低い声が聞こえて、ぼくの身体は縮こまった。うつむくと、机の上に算数の教科書とノートが広げてあった。ぼくはそのまま座ってわり算に取りかかった。
九九はちゃんと覚えている、ひき算はくりさがりが苦手だ。算数なんかできて何になるんだ。丸つけをすると10問中7問正解だった。学校に行かなくなってから半年経つけど、勉強はまだなんとかできている。
「トキオ、ご飯よ」
母に呼ばれて椅子から立ち上がった。靴下の爪先の生地が薄くなって、爪が光っているのが見えた。
居間で部屋着に着替えた父が座卓に座って酒を飲んでいた。父はぼくをちらっと見たが、ぼくは下を向いたまま斜め前の席に座った。母がご飯茶碗をぼくの前に置いた。
「どうぞ」
「いただきます」
ぼくは食べ始めたけれど、ぼくにとっての朝ご飯で、父にとっての夕ご飯はつらい時間だった。何を食べているのか味がしなくてわからない。
「トキオ」
父の低い声に、ぼくは身体が跳ね、箸を落としそうになった。
「今日は学校に行ったのか」
ぼくはすっかり固まった。
「トキオ! 返事は」
ぼくは首を振った。すると、母がぼくと父の会話に割って入った。
「怒鳴るのはやめて」
そして、ぼくの顔を見て、少しだけ微笑んだ。
「トキオ、食べたら部屋に戻りなさい」
背中で父が呼ぶ声を聞いた気がしたけれど、ぼくは聞こえないふりをして居間を出た。そして、そのまま耳を澄ました。
――どうしてそうトキオに甘いんだ
――だって学校に行くのは辛いって言ってるんですもの
――世の中には辛くても耐えなきゃいけないことがある
――でもタカシさん、辛いことを回避することだって大事よ
――小学3年生からそんなんじゃ、社会でやっていけないだろ
――トキオは身体も心も疲れてるのよ。まずは休養が必要よ
――もう半年も休んでるんだぞ。昼夜だって逆転してるじゃないか。自堕落もいいところだ
ぼくのせいで、最近父と母はケンカばかりしていた。ぼくは自分の部屋に戻って布団にもぐり込んだ。
ごめんなさい、お父さん。でも学校なんて、ちっともおもしろくないよ。
うとうとしていると、ぽんぽん、と布団を叩く音がした。母だ。母は上着を着て小さな鞄を持ち、出かける支度を済ませていた。
「お父さん、お風呂に入ったわ。行きましょう」
ぼくは布団を出て、長袖の上着を着た。ぼくたちはそうっと家を出た。
もう夜の9時を過ぎていて、外は真っ暗だった。父はぼくたちが毎日この時間に外出することを知っていたのだから、本当は父に内緒でこっそり家を出る必要なんてなかった。でも父は「いってらっしゃい」とぼくたちのことを見送ることはできないから、父を気まずくさせないように、ぼくらは父がお風呂に入っている間に出かけるのだ。
ぼくは母と手をつないで歩いた。20分歩いて、家から離れた公園の門に着いた。ここなら近所の人に見咎められる心配はない。昼間は子どもたちでにぎやかな場所なのだろうか。ぼくと母は夜にここを訪れてはひっそりと遊んでいた。
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