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今夜と同じ、きれいな満月が空に掛かっていた。
その日は興が乗ったのか、師事しているS先生の講義が長引いた。先生が全てを語り終え満ち足りて講義が終了したのは、日も暮れて月が東の空の中程まで昇った頃だった。
私と彼は空きっ腹を抱えて、下宿先までの道のりを並んで歩いた。
どうしてそういう方向へ話が行ってしまったのか、今でも見当がつかない。多分、何らかのきっかけがあったはずなのに、思い出すことは難しい。それでも、いつの間にか私たちの話題はそこへ向かって一直線に進み、気が付いたら彼といささか口論じみたことになっていた。
彼は、はっきりと苛付いた口調で言った。
「お前は勉学を諦めるのか」
普段は温厚な彼が、何故ここまで怒っているのか解らない。それでも、私は真面目な方で、彼は酒や女や少し道を逸れることも多かった。その彼にとやかく言われるのは心外だった。
「そうは言っていない、ただ——」
言い淀んでいると、彼は急に勢いを失くしてうなだれた。背中を丸め、肩をすぼめた彼はひどく小さく、その存在までも小さくなった気がした。
「すまなかった。お前の人生だ。俺には何の口出しも出来ない、すまなかった」
二度、謝意の言葉を告げた。私とは、これ以上、何も言い合う気はないと言わんばかりに。
月光は、小さくなった彼にも私にも等しく降り注いだ。冷たい光だった。指ではじけば、甲高い金属音がしそうである。私たちは、黙ってただ歩いた。
歩いている内に、いつも通る橋まで着いた。私はこの橋を渡り下宿先へ帰る。彼は橋の中央まで私と一緒に渡り、そこから引き返して自分の下宿へ戻るのが常だった。コンクリートの橋に足を踏み入れると、二組の下駄の音が響いた。一つは引き摺るように、一つは小さな音で。
橋の半ばまで歩みを進めると、彼は立ち止った。私も足を止め、欄干に両手を置くと川面を眺めた。
川の水面に月影が映り、滲むように揺れていた。足元からは、ゆったりと流れる川の水音がする。
「月が奇麗だな」
真っ直ぐに前を見詰めたまま、彼が言った。声はしっかりしていて、夜の闇によく通った。
月の光が彼の鋭角的な輪郭を際立たせ、黒々とした瞳はどこか深いところを見詰めているようだった。
彼の横顔から目を逸らし、私は月夜空を振り仰いだ。彼の言う突拍子のない言葉に驚き、何と応えたらよいのか、思いつかなかった。
私は奥歯を噛み締め、欄干を強く握った。
「貴子さんとの婚約が決まった」
俯くと、水面の月影だけを見詰めた。彼の顔を見ることはできなかった。
「それは、目出度い」
それだけ言うと、彼はきびすを返し、元来た道を戻っていった。
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