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その日は、月のきれいな夜だった。
月は辺りを隈なく照らし、周りの雲を薄墨で描いたようにぼんやりと輪郭を持たせていたが、しかしそれによって傘をかぶるということはなかった。雲はもやのように薄く月の周りを漂っているだけである。
静かな夜だった。私は彼と二人で連れ立ってどこへ向かうでもなく、気の向くまま、足の向くまま歩いていた。ぽつりぽつりと勝手な話をしながら。
「相変わらず、貴様は変わらんな」
「そういうお前は、また一年分年を取ったな」
昨年会った時と同じ会話を、もう何年も、毎年繰り返している。
特別に約束して会っているのではない。大気から夏の潤みが消え失せ、徐々に空気が冷たく澄んで秋へと向かう。夜空の月が奇麗に見え始めた頃に、ばったりと出会う。四つ辻の先であったり、曲がり角であったり、橋の両端であったり、時には後ろから声を掛けられることもあった。お互い、月に誘われて夜を彷徨う最中だから、急ぐ事もなく歩調を合わせるのだった。
彼とは書生時代からの昔馴染みなので、会えばついつい話し込んでしまう。彼は和装の腕を袖手し、のんびりと歩みを進めた。
彼の下駄は音を立てず、私の靴音だけが高く響いた。
その道は街灯もまばらで、一定の間隔で点々と光が灯っていた。街灯の一つ一つには灯かりに誘われたのだろう、小さいのやら大きい蛾が群れている。その翅は光を反射し、蝋燭の揺らめきのように淡くまたたいていた。そうして何匹かは街灯に近づきすぎたために発光体に接触し、はじかれて、鱗粉を細かな霧雨のように降らせた。
そのうちの一匹がふらふらと力なく落ちてきた。彼の体をすり抜けると、私の足元に着陸し、翅をばたつかせて円を描きながら回転した。当然、彼の足元には影はなく、私の影だけが黒々と後ろに伸びている。
「そういえば、ついこの前、十七回忌で貴様の実家に行った。久しぶりに妹君に会ったよ。お母上が足を悪くされたようで、しばらく実家に戻って付き添うと言っていた」
そうか、と気のない返事をすると、彼は街灯に目を向けた。アーク灯の光は放射状に広がり、彼を透かして地面を照らした。
「貴様は薄情だな。少しは向こうに顔を出したらどうだ。きっと喜ばれるだろう」
「まあ、この状態ではそうもいかない。驚いて、泣かれるのも困る」
それもそうだと言葉に詰まる。俯いた足先には、また虫が落ちてきた。踏まないように歩調をずらし、避けて歩いた。
それでも、彼に会えたなら、私よりは再会を喜ぶだろう。こんなところで油を売っていないで、家族に会いに行けばいいのに、と思う。彼との再会を喜ぶ家族の元に戻ればいいのに、と思う。
不満が表に顕れてしまっていたのか、こちらを向くと小さく笑い「いいんだ、これで」と彼は言った。
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