プロローグ

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プロローグ

 私は一通のメールを保存している。「見積書の作成に必要な資料をファイルで送ります」といったよくある仕事のやり取りだから、書いてある内容はさほど重要ではない。保存した理由は、最後の一文に書かれるはずだった「お願いします」が、「尾根ギアします」と打ち間違って送信されてきたから。  本来ならこの世に生まれてくるはずのなかった、間違った言葉。軽く舌打ちされながら、バックスペースボタンで跡形もなく消されてしまう言葉。忌み嫌われたまま一生を終える「尾根ギアします」のことを思うと、心臓がきゅうと縮む気がした。  私が好きなあるコピーライターは「人は書くことと、消すことで、書いている」といったキャッチコピーを生前残したが、それはとても正しくて、とても残酷な言葉だと思う。  スマホのメールアプリを起動して保存のカテゴリを開くと、無機質なセンテンスの集合体の中から七文字だけがくっきりと浮かび上がってくる。  明朝体特有の繊細さで書かれた「ま」や「す」は、自分の出生を恥じるかのように背中を丸めていて、「ギ」は緊張のせいかぎこちなく固まっていた。彼らの気持ちを落ち着かせるため液晶に浮かぶ文字をなぞると、指先にうっすら熱が伝わってくる。 「私だけが、あなたの存在を知っているのよ」と考えるのは、傲慢なセンチメンタリズムなのかもしれない。  それでも、スマホが主流になり、パソコンも予測変換が当たり前になった今の時代において、タイピングミスで「尾根ギアします」が誕生したこと。そして、消去されることなく私のもとに届いたという事実は、ある種の奇跡だと思う。  だから私は、彼らが存在していたことを決して忘れはしないし、このメールはいつまでも消さずにいるつもりだ。  そしてもう一つの理由はごく単純だ。タカシから貰った初めてのメールだったから。もっとも彼は覚えていないだろうけれど。
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