みらいの恋人

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 仲村湊は、手に持ったスマホの画面を見て目をこすった。  マンガじゃあるまいし、二十六にもなってリアルでこんなことをする日が来るとは思わなかった。しかしいくら目をこすっても瞬きをしても、ついでにスマホを再起動してみても、目の前の表示は2023年11月4日(土)と表示されている。  一瞬前までは2030年11月1日(金)と表記されていたはずなのに、だ。  しかもこのスマホは古い。いや、手に持ってるもの自体が古いとかではなく、高校生の頃、自分が使っていた懐かしい機種なのだ。 (うそだろ?)  雲一つない空を見上げてみれば、さっきはほぼ半分欠けていたはずの月が、今は満月と半月の間くらいに膨らんでいた。月食じゃあるまいし、一瞬で月の形が変わるものか。 (タイムリープ……?)  そんなSFみたいな単語が思い浮かぶ。  自分はスマホが壊れたわけではないのだと、知っている。  自分が今「過去の自分の中に入ってしまった」のだと、なぜか理解している。  理屈ではなく理解していた。  ――ここが7年前の世界なのだと。 (何が起こったんだ?)  湊の最後の記憶は、遅めのランチを食べに横浜カフェーという店に入ったことだ。  カフェではなくカフェー。  薔薇と黒猫亭というそのカフェーは、昼は食事、夜にはカクテルを中心に酒も出す小さな店だ。  貰った覚えもない店の名前が入ったレトロなデザインのマッチ箱がポケットに入ってたのを見つけた時、誰かに「グラタンがおいしい店だ」と言われたのを思い出した。 「迷った時に行ってみるといいよ」――と。  あれは誰だったのかはさっぱり思い出せない。しかし、ちょうど近所に来ているしと、用事のついでに一人でふらりと立ち寄ってみたのだ。  とはいえ、もう夜営業が始まった17時過ぎだ。本来だったら少し早めの夕食といった方が正しいかもしれない。それでも昼抜きでやっとありつける食事は、湊にとってはランチだった。  だって、数時間後には確実に夕食も食べるのだから。  すりガラスのはまったくすんだ赤い枠のドアを開けると、なぜか少し眩暈のような感覚に襲われる。 (ああ、腹減ってたもんな)  空腹で目が回ったのだろうなんてことを考えながら、店内を見まわす。  赤と黒を基調とした店内は、古き良き日のアメリカ映画の画面にでも出てきそう。静かに流れるジャズも雰囲気に一役買っているのだろう。横浜という土地柄もあってか、少しだけ異国に来たような気分になる。 「お一人様ですか? 空いてるお席にどうぞ」  湊に声をかけてきたのは、大正モダンというのだろうか。太い縞模様の着物に白いエプロンを付けたウェイトレス――いや、ここは女給さんというべきだろうか。あごの下で綺麗にそろえた黒髪の女性店員だった。  入って左手に小さな丸テーブルが三つ。右手のカウンターには七脚のバースツール。テーブル席の二つは埋まっていて、カウンターの奥に年配の男性が一人。それをざっと見まわした湊は、入り口直ぐのカウンター席に腰を掛けた。  ピークじゃないとはいえ、一人でテーブルを占拠すると彼女に怒られそうだなと思ったのだ。彼女とは女給さんの事ではなく恋人のことである。   明日の土曜は彼女とデートの約束もある。  本当は彼女の二十八歳の誕生日である4日にデートしたかったのだが、互いの都合が合わなかったのだ。  目下の悩みは結婚についてだ。  恋人の沢口みらいは二歳年上のしっかりした女性で、付き合い始めて三年になる。  プロポーズしてもおかしくない時期だとは思うのだ。  彼女も誕生日が来れば二十八。まだ付き合ってもいない頃、二十代で結婚したいと話しているところを偶然耳にしていたし。  ただ自分がまだ二十六になったばかりで、頼りなく思われてるんじゃないだろうかとか、考え始めたら色々悩みが尽きなくなってしまった。  結婚したいなとは常に言っていたし、みなみも「そうだね」といつも笑って答えてくれていた。  いつもきっちりとしたシンプルな装いの彼女は、まじめでしっかりしてて、地味で目立たないけど実は顔立ちが整っていることを湊は知っている。時々ドジなところが可愛くて、料理は少し苦手だけど掃除は得意。  湊が掃除と片付けが苦手で料理は好きだから、バランスもいいと密かに考えている。  でも断られたら……。  一度そう考えてしまうと、本気でプロポーズするのが怖くなった。  彼女より先に生まれたかったと時々思う。  みらいが以前付き合っていた男が年上ばかりだということも、なぜか最近気になって仕方がない。  万が一、年下の男は付き合うにはいいけど、結婚は考えられないなんて言われたらショックだ。 (絶対幸せにするなんて言えないのが情けないよな。俺はみらいさんと結婚出来たら、すっごく幸せなのに)  彼女の友達が次々結婚し、焦っているのが男の湊の方だなんて、彼女は気づいてないだろう。 (なんで彼女の友達は、みんな年上と結婚するのかな。年下だって頼りにしてもらえるよう頑張ってるのに)  みらいとは一生一緒にいる。出会った時からそんな予感があった。 (でも悩むんだよな。せめて年が逆だったらよかったのに)  そんなことを暇さえあれば考えてしまっていたから、無意識に「迷った時に行ってみるといい」店に来てしまったのかもしれない。  アツアツのチキンマカロニグラタンとさっぱりしたウーロン茶で腹を満たすと、不思議なほどの満足感が腹の奥から広がった。  空腹だとネガティブな思考になるのだろう。  それでもやっぱり――と、思考が堂々巡りしそうになりながら店を出ると、目の前に登りかけの半月が見えた。スマホを出して時間を確認し、一瞬ゆらっと空気が揺れたような錯覚を覚えた湊は、空に見えた月が膨らみ、スマホの表示する日時が過去のものだと気づいたのだ。  ***  18歳の自分に入ってしまった湊は、まるで幽霊にでもなったような気分だった。未来の記憶も意思もあるのに、過去の自分はまったく思うようにならない。これがSF映画なら、何が起こったのか調べたりするところだろうに、過去の湊は己の中に未来の自分がいるなんて全く気付いていないのだ。  何もできないと力を抜いた瞬間、26歳の湊は18歳の湊に溶け込み、自分が当時毎日行っていたロードワークの途中であることに気づいた。  受験勉強の息抜きも兼ね、夕飯前に毎日裏山を走っていたのだ。  裏山と言ってもそんなに高さはない。頂上には展望台や遊戯施設もあり、ちょっとしたレジャーやデートスポットになっていて、道も整備されている。何もないところを走るよりも気分転換になるようで気に入っていたのだ。  頂上まではいかず、適当なところで折り返して下っていると、途中で女の子が一人で歩いていることに気づいた。後ろ姿だけだが、自分と変わらないくらいの年のように思えた。  しかし、薄手のミニのワンピースに、かかとの高いサンダル。  昼の街中ならともかく、夜の山道を歩く格好には思えない。  事実彼女は両腕をさすり、足を引きずるように歩いていることに気づいた湊は、思い切って声をかけてみることに決めた。  高校生にしては身体が大きく大人っぽくみられることが多いため、警戒されないよういったん猛スピードで彼女を追い越す。そして少し離れた街灯の下で止まると、今気づいたかのような顔をして 「大丈夫ですか? けが、してます?」  と声をかけた。  驚いた顔をした女の子の顔を見て18歳の湊は(可愛い!)と思ったが、その奥にいる26歳の湊は(え? みらいさん?)と驚いた。  ここは湊の地元で、彼女の実家は隣の県だ。大学時代も地元だったはずだから、彼女がここにいるはずがない。  それに、今のみらいからは考えられないほど、一言で言えば派手な姿だった。  都会的でお洒落な服、メイク、大ぶりのアクセサリー。どれをとっても今のみらいがしないものばかりで、どうみても気合の入ったデート用の服に見える。  しかし泣いていたらしく目元の汚れた顔を見ないふりした湊は、彼女の足元にひざまずいた。 「靴擦れしてるね。歩くのつらいでしょう」  何が彼女の警戒を解いたのか分からない。  だが幸いなことにしばらく問答した後、湊はみらいを背負って山をおりることになったのだ。  けがをした女の子を放置せずに済んでよかったなんてことを思いながら、ぽつぽつと彼女が話すことをただ聞いた。  大学生である彼女は今日、高校時代の先輩である彼氏とのデートだったこと。  サプライズで隣の県にあるここに連れてこられたこと。  山に来ると思ってなかったから、華奢な靴で足を痛め、それに彼が不機嫌になり一人で帰ってしまったこと。かろうじて財布は持っているけれど、彼の車で充電していたスマホは持っていかれてしまったこと。  公衆電話から自分のスマホにかけたけど彼は出てくれず、仕方がないので駅まで勘で行こうとしてたこと。 「最悪じゃないですか。男の風上にも置けないよ」 「ですよねぇ。私もそう思う」  明るい口調だけど泣いてるみたいで、彼女の顔が見えなくてよかったと思った。  彼女が仕方ないという風に、まるで自分に非があるみたいに話すから、湊の方が怒ってしまう。  おんぶしてても軽い、こんな華奢な女の子を置いていくなんて、自分なら絶対にしない。許せない、と。  そのまま駅まで送り、みらいが切符を買った。普段切符など買わないから、これでいいのかと悩み、二人で笑ってしまった。 「お兄さんの名前、聞いてもいいですか?」  改札前で彼女がそう聞いてくれたから、早口に 「仲村湊。人偏のなかに村、サンズイに奏でるのみなとだよ」  と言った。彼女の目が少し丸くなって、小さく「年下だったんだ」と言われびっくりする。なんでバレたんだろう。  それでも丁寧に礼を言われ別れた後、ようやく連絡先を交換すればよかったと落ち込んだ。その時ようやく、彼女に一目惚れだったと気づいたのだ。 「また会いたいな。くそっ」  会えることを期待して今買った駅まで行ったら、ただのストーカーで怖いよな。  *** 「なんだ、そうだったんだ」  自分が声を出せたことにびっくりし、二度瞬きをする。  そこはまだカフェーの前で、湊はぼーっとドアの前に立っていた。  月は半分欠けているし、スマホは2030年11月1日(金)と表示している。  あの日一目ぼれした女の子のことを、湊は数年忘れられずにいた。顔もよく覚えていないのに、もう一度会いたいと思っていた。自分なら絶対大切にするから。  それでも就職する頃にはあきらめていて、仕事で知り合ったみらいに一目ぼれして、今度こそはと猛アタックした。  まさか同じ人だったなんて思うはずないだろう。  無性に彼女の声が聞きたくなって、そのままみらいに電話をかける。 「ねえ、なんであの日、年下だってバレたの?」  つい脈絡もなく聞いてしまい、あわてて言い訳しようと思った湊は、みらいの 「山でおんぶしてくれた日の事?」  と、当たり前のように言われて驚く。 「え、俺だって気づいてたの?」 「気づいてたよ。頼りになる人だなって、ずっと思ってたもの。なんて、本当はね、再開してすぐは同一人物だってわからなかったんだけどね」  過去を見たのは夢ではなかったし、あれは現実だったのか。 「で、年下だってわかった理由? それは、湊君の名前を聞いたからだよ」 「え? どういうこと?」 「湊って字が名前で使えるようになったのって、2004年の9月からなのよ。従弟が生まれた時、伯母さんが湊ってつけたかったけど、一か月早くてダメだったって言ってたから印象に残ってたんだ」 (え、知らなかった) 「でもどうして急に?」  電話の向こうで不思議そうなみらいの声に、湊はゆっくりと微笑む。  何度あっても好きになる人なんて他にいない。  やっぱり自分には彼女しかいない。  まだ早いって言われてももいい。努力で後は補う。 「うん。次のデートで、ちょっと話があるんだ」  空を見上げ、半分欠けた月を見上げる。  指輪は一緒に選びに行こう。  結婚してくださいって、ちゃんと言うんだ。
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