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 猫が屯する裏路地で、奇妙な男の奇妙な「予言」に振り回された日の翌朝、有紀は普段より早く自室を出、あの場末へ向った。  夜には見慣れた景色も、午前8時の明るい陽射しの下では様相が一変する。  アルコールのすえた匂いに加え、アンモニア臭まで漂う小道は閑散としており、ひどく殺風景だ。    はっきり言って汚く、それなりに臭い。    どうして夜の間はああも気持ちが安らいだのか、不思議な気持ちにさえなってしまう。  鼻をつまみたい心境で裏路地へ入り、恐る恐る袋小路を覗くと、呆気無く「あの男」を見つけた。  グレーのカジュアル・スーツに無精ひげ。昨夜、見た時と同じ出で立ちで、奥光りする眼差しも相変わらずだ。  まさか、あれからずっとここに?  何処までヒマなの、とツッコミたいし、胡散臭いにも程が有る。  少なからず腰が引けた状態で近づくと、男はゴミ収集ボックスの端へ腰を下し、指先で足元にいるピートを戯らしていて、   「やぁ、待ってたよ」  有紀へ明るく片手を上げた。 「……あの……あたしが来るって知ってたの?」 「ああ」 「え~、それ、つまり…例の予言の力で?」  男はふっと笑い、首を傾げて見せた後、ゴロンと仰向けになる縞猫の柔らかなお腹を撫でた。 「慣れてるね、とっても」 「うん、概ね僕は、人間なんてしょ~もない生き物よりず~っと猫との相性が良い」  指先の柔らかな感触に目を細める男の顔を眺め、有紀は再びデジャブを感じた。 「腹黒い人間どもの為には死ねないが、猫の為なら死ねる……時々、そんな気がする位さ」  決して人づきあいが得意では無く、毎夜、猫の温もりで救われている有紀にも、その気持ちは理解できる。  第一印象の胡散臭さを一先ず棚に上げ、フラットな気持ちで男の表情を観察してみた。  やっぱり、そんなに悪くない。  髪を整え、無精ヒゲを剃って見た目を整えれば、世間的には十分イケメンで通るルックスだろう。  世を拗ね、シニカルに言葉を紡ぐ男の歪んだ唇が特徴的で、しばらく眺める内、ようやく朧げな記憶が鮮明になる。  あぁ、そうそう……この顔、確か……    株取引の天才、1日で1億稼ぐ男とマスコミに持て囃され、半年前まで飽きるくらい、テレビに映し出されていた顔だ。    およそリッチな暮らしと程遠い有紀には、別次元のエイリアンに思え、当時はあまり興味を惹かれなかったのだが、   「戸川団さん、ですよね?」  勇気を出して尋ねてみる。すると、  ニャア。  有紀の指摘で手の動きが停まった男へ、もっと撫でて、とピートが催促した。 「予言みたいな事、あなたは何故、できるの?」 「……あのさ、君、バタフライ・エフェクトって言葉、知ってるかい?」  又も質問に質問で返され、有紀は渋面で頬を膨らました。 「ブラジルで小さな蝶が羽ばたくと、その影響が連鎖、複雑に積み重なった結果、最終的にはアメリカのテキサスで巨大な竜巻を引き起こすかもしれないってお話」 「蝶が……竜巻?」  有紀の膨らんだ頬が一気にへこみ、次に両目が丸くなった。 「いや、必ずそうなるって訳じゃなく、単にそうなるかもしれないと言う可能性さ」 「はぁ?」 「原因と結果、その因果関係の流れ次第で、小さなきっかけでも恐ろしく大きな出来事の原因になりうる」 「う~……」  丸く見開かれた目を閉じ、有紀は頭を抱え込んだ。根っから文系に属する彼女の感性が早くも限界の壁へぶつかったらしい。  男は慌てて、話をシンプルに修正した。   「よ~するに僕は因果律の流れ……つまり、何と言うか、原因から導かれる結果までの詳細なプロセスが、直感的に把握できるんだ。只、因果に直接関わる対象を見つめるだけで、ね」 「……プロセス?」 「ぶっちゃけ、初めのきっかけになる事柄を目撃すると、最後にどうなっていくか、寸分違わず言い当てる事ができる」 「それって、つまり、予言みたいな?」 「未来自体は見えないから、予言とは違うよ。人の心の奥を透視する事もできない」 「でも、昨日のアレ、凄かったじゃない」 「あぁ、あの時はね、逃げる君の背中へ声を掛けたらどうなるか? どう転び、ダメージが君の靴や首筋にどう残って、何時頃、どの様に表面化するか、見えただけなんだよ」 「だけって……完全に超能力じゃん!」 「確かに使える力ではある」 「今風に言えば、異能、みたいな?」 「ん~、ま、どう呼ぶにせよ、投機に用いれば完全にチートだな。負けた事が無い、おかげ様で」 「つまり……やっぱりあなた、あの戸川団なのね」 「1日で1億稼ぐ男、なんて、アホな徒名で良い気になってた。その内、甘い汁を吸おうって奴らが山ほど湧いてさ」 「まぁ、そうなるよね」 「人間が如何に恥知らずで容易く裏切る生き物か、嫌と言うほど、学んだよ。彼らは僕の気持ちにお構いなく、この命が尽き果てるまで、トコトン利用しようとするだろう」  言葉の奥に抑えた怒りが滲み、六月のくすんだ空を仰ぐ眼がふっと足元へ落ちて、底知れぬ虚無を映し出す。    この人、一体、どんな経験を……?    う~、あんまり想像したくないかも。    お人よしの有紀の中で、昨夜以来の警戒心が薄れ、何時しか淡い同情へ変わりつつあった。    でも、猫の反応はよりストレートだ。頭を撫でる掌から男の苦悩と苛立ちを察し、間近の塀へ飛び乗って、あっと言う間に何処かへ消え去ってしまう。   「……あ~、行っちゃったね。塀を飛び越え、縄張りのパトロールへ」 「遥か、雑居ビルの屋上まで?」  戸川団は声を上げて笑い、その屈託の無さに誘われて有紀も微笑んだ。  もう目の前にいる男への恐怖感は無い。  潜ってきた修羅場がどうあれ、猫に好かれる奴に、きっと悪い人はいないと思うし…… 「良かったら、一緒にコーヒーでもどう?」 「あ、でもあたし、これから仕事で」 「フフッ、そこらで缶コーヒーを買うだけさ。残念ながら、今の僕は1億どころか、100円硬貨にも不自由する身の上でね」 「団さん、もう株の取引、してないの?」  落ちぶれた天才は両肩を竦め、通りの道端にある自販機を目指して、物憂げに袋小路を出て行く。
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