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その日の夜は前日に増して暑かったが、湿気の方はそれ程でもない。
もうすぐ梅雨が明けるのかな?
そんな事を思いつつ、有紀は上空の満月を見上げた。
久々に良く星が見える夜だ。気持ちも明るく、足取り軽く、と行きたいけれど、そんなノリには程遠い。
サイコパスCEOに心の内をぶちまけ、爽快だったのはほんの一時。落ち着けば否応なしに、先行きの不安が湧いてくる。クビになるのは間違いないし、「トコトン干す」と宣告された言葉も耳に焼き付いていた。
櫛田は激高すると思い付きで喋る傾向があり、実際に何処まで可能なのかは良く分からない。けれど割に合わない費用と手間を掛けてでも、逆らう者へ鉄槌を下そうと図る筈。
理屈ではなく、それが奴の趣味なのだ。陰湿にトコトン執念深く、櫛田は追い打ちを掛けてくるだろう。
どうしよう、あたし、明日から?
ぼんやり月を見上げたまま、問いかけてみても答えは無い。
湿気交じりの生暖かい風が、がっくり肩を落とした有紀の袖口を撫で、テンションだだ下がりのまま、スマホで時刻を確認する。
戸川団と約束した待ち合わせの時刻はもうすぐだ。
櫛田ファンドの人間と顔を合わせたら気まずいので、少し離れた立ち飲み喫茶で時間を潰していたが、やっとそれも終了らしい。
彼女を今の窮地へ追い込んだ野良オトコへ文句の一つも言ってやらないと、気持ちが治まらなかった。それに、団の仕掛けた「因果」の結末がどうなるのか、内心、気になって仕方ない。
「好奇心は猫を殺す」という言葉が、チキンな彼女の胸の奥を繰り返し揺さぶっていたけれど……
小走りで繁華街を抜けて行くと、甘える猫の声が幾つも聞こえた。路地裏は今日も満員御礼。五匹の猫が団と遊んでいる。
あやすと言うよりこの野良オトコ、群れにすっかり溶け込む……いや、猫の温もりへ逃避している感さえ有り、声を掛けるのを躊躇していると、
「やぁ、君、うまくいったかい?」
振り返りもしないで、団が先手を取った。
「ピートは何処?」
男と目を合さず、有紀は辺りを見回す。常連の、あのちょっと太目の縞猫だけ、何故か姿が見えない。
「今夜はまだ来ていないよ。縄張りでも、パトロールしてるんじゃないか」
「……そう」
「それより、首尾は?」
団の急かす口調に有紀は口籠り、目を逸らして俯いた。
「まさか、君!?」
問いかけても答えは無い。
しばしの沈黙の後、猫と遊ぶ時の穏やかさをかなぐり捨て、団は有紀へ詰め寄る。
「凄く重要だと僕は念を押したよね?」
「あなたから預かったメモリ、差し込むチャンスはあったのよ。あったんだけど、これからって時に……」
有紀は悔し気に唇を噛んだ。
彼女自身、全く想定外だったのだ。普段、滅多にフロアへ出ない櫛田洋三が、まさかあんなタイミングで現れるなんて。
一通り事情を聞いた後、苛立ち紛れに団は「クソっ!」と叫び、背後の塀を叩いた。およそ彼らしくない剣幕に驚いたのか、数匹の猫が路地裏から逃げ出していく。
頭を抱える彼の落ち込み様に、ぶつけてやるつもりだった文句の数々が有紀の喉元から引っ込んだ。
「そもそも君、どうして実行を躊躇ったんだ? 結局、ギリギリまで僕のプランを実行するかどうか、決めかねていたんだろ?」
「それは……何が起きるか怖くなって、ふとあなたの言葉を思い出したの」
「僕の?」
「ほら、初めて会った夜、「デッド・ゾーン」って小説が好きだと言ったでしょ。あたし、読んでないけど、映画版の方を観てるンだ」
「クローネンバークが監督した奴だね」
「で、内容を思い出す内、ドンドン怖くなって来ちゃった。だって未来を見通す超能力者が、いずれ世界を滅ぼす危険人物をその前に殺そうとして、自分が死んでしまう話なんだもん」
団は小さく溜息をついた。立ち上がっていつもの能天気な笑いを浮かべようとしたが、できない。
代りに、よろよろ何歩か後ずさる。多分、朝、コーヒーを飲んで以来、何も口にしていないのだろう。
「ねぇ、あのUSBメモリを使ったら、何が起きる筈だったの?」
「……君の上司が死ぬ筈だった」
衝撃的な告白にも拘らず、有紀に大きな驚きは無い。もしかしたら、と思ってはいたのだ。
むしろ団の、感情が載らない淡々とした言葉使いが気になる。何処か捨て鉢で、普段の彼とのギャップが大きい。
「僕が君へ渡したメモリにはね、ファイヤーウォール・プログラムのバックドアを開くキーが入っていたんだ」
「バックドア?」
「前にも話した通り、あの会社のセキュリティは万全。外部からのハッキングは不可能だし、ウィルス感染にも十分な配慮がなされている。複数の同時感染さえ、独自のAIによる検索と駆除を並行して行える仕組みだ」
「だからあの人、いつも余裕綽々だったのね」
「但し、ファイヤーウォールの作成者自身が、プログラム時点で抜け穴を仕込んでおけば話は別さ。キー・コードの入力で勝手にバックドアが作動し、情報をネットへ垂れ流してしまう」
フッとシニカルに笑う。
団の、その笑い方は深い翳りを含んでおり、彼が抱える闇、苦悩の大きさを有紀は感じずにいられない。
「ねぇ……そりゃ嫌な奴だけど、櫛田は昔からの知り合いでしょ。どうして、そこまでやらなきゃいけないの?」
「やりたくて、やってるんじゃない!」
又、思い切り拳で塀を殴る。
残っていた猫も全て逃げ出してしまい、路地裏をしばしの静寂が包んだ。
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