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 コンクリートを殴りつけ、擦り向けた拳の皮膚から一筋の血が伝う。  猫を真似る仕草で、団はペロリとそれを舐めた。  自分でも言い過ぎたと思ったのだろう。無理におどけて見せ、取り乱した態度を払拭するつもりらしい。 「櫛田が今のポジションを得るまで、どれ位、グレーゾーン、いや、真っ黒な案件を手掛けて来たか、想像つくかい?」  一転、静かな眼差しで有紀へ問いかけて来る。 「腹黒って所までなら、一応……」 「急成長を遂げる企業には、大なり小なり、ダークサイドがあるモンだ。だが、短期間で極端に膨れ上がった櫛田ファンドは又、格別でね」 「あなたの異能のお陰でしょ」 「投資のリターンについてはその通り。更に投資の元手、出資者を集める際も全く手段を選ばなかった」 「まさか、ヤッチャンとか、絡んでるの?」 「ああ、櫛田が隠蔽する特別な取引先には、暴力団や国外の犯罪組織までが含まれている。仮に情報流出で大損すれば、奴らはどうすると思う?」 「……その答えが見えたんでしょ、あなたの力で」 「櫛田は拉致され、東京湾へ沈められる筈だった。さもないと、この僕の方が未来の危険人物になってしまう」 「あなたが? ヘンテコな異能があるだけで、あとはしょ~もない人畜無害のキャラじゃない」 「年金の株式投資に櫛田が関わっているのは知ってるだろ?」 「うん」 「その為の予測を僕はやらされていた。既に痛んでいる年金の内情を隠す為にも投資益は重要でね。株運用は加熱の一途だが、中東での紛争を契機に全て変わる。金融緩和バブルが弾け、史上最悪規模の恐慌が世界のマーケットを襲うんだ」 「じゃ……年金、破綻しちゃうの?」 「経済政策は複雑に絡み合っているから、破綻するのは年金だけじゃない。三桁を超える高齢者の餓死や自殺が連日報道され、若者は将来へ絶望して社会不安が増大していく」 「酷い……」 「あぁ、死んでも償いきれない罪を僕達は背負う事になるのさ」 「その結果を櫛田は知ってるの? 説得すれば、もしかして……」 「いや、あいつは自分の利益にしか興味が無い。完璧にタイミングが予測できた場合、むしろ恐慌は大儲けのチャンスだからな。僕の予想で稼げるだけ稼ぎ、早々に国外脱出を図る腹積もりでいる」 「じゃ、利用される前にあなたが逃げたら?」 「実際、逃げてたんだよ。表舞台から身を引き、この半年間、思いつく手を全部使って、北海道から沖縄まで」  団は肩を竦め、お手上げのポーズを取って見せた。 「……逃げられない、と悟ったのね」 「奴が表と裏のコネを動員すれば、何処に隠れても同じ。拒んだ所で、いずれ従う羽目になる。その未来の因果が見えてしまった」 「じゃ、どうすれば?」  団は又、肩を竦めた。 「自分で死ぬことも考えたよ。でも、怖くてできなかった、どうしても」 「あ、あたしと二人で逃げようか? 二人なら、結果が変わるかも」 「そこまで君を巻き込めない。大丈夫。まだ、プランBがある」 「……でも、プランBってアレでしょ? 私の職場で、屋上まで上がって」 「そうさ。今度こそ指示通り、やってくれたんだろ?」  有無を言わさぬ迫力で迫られ、有紀は頷いた。  そう、一応、言う通り動いている。プランAでヘマした後ろめたさもあり、やらずにはいられなかった。  その手順は以下の通り。  櫛田ファンドのフロアを逃げ出した後、エレベーターでビルの屋上へ行き、路地裏の猫用に持ち歩いている煮干を、西の表通りに面した屋上の端っこへ置く。  それだけ。  言う通りしたけれど、余りにも意味不明だ。  バタフライ・エフェクトだか、何だか知らないが、ビルの屋上に煮干しがあるかないかで、未来がどう変わると言うのだろう?  由紀に何度か念を押し、団は腕時計を確認した後、櫛田ビルの方角へ鋭い眼差しを向けた。  因果を見抜く力で、何かチェックしているらしい。 「うん、これで良い。臆病な僕が、本気で覚悟を決めるには……自分で自分を追い詰めるには、この方法しかない」 「覚悟を決めるって、何?」 「猫の為なら死ねるって、前に言ったろ。たとえ自殺する勇気は無くとも」 「だから、意味がわからないって!」  ふっと団は微笑んだ。  屈託のない、澄んだ眼差しの中に、有紀への感謝と親しみを込めており、同時に、何かを吹っ切る覚悟の笑みに見えた。 「僕、君に会えて幸せだったと思うよ、猪又有紀さん」 「……え?」  少しふらつく足取りで、通りへ出ていこうとする団の背中が月明かりに浮かんだ。  最後のお別れ。  この路地裏で見送り、二度と現れなかった野良猫達の面影が、有紀の胸をよぎり、不吉なデジャブを突きつけて来る。  この人をこのまま行かせちゃダメだ。  何の理由も無く、有紀はそう思った。  もう会えなくなる、その確信が、耐えられない程の切なさに転じ……  気が付いた時には団に駈け寄り、後ろから抱き締めていた。   「君、何を!?」  強引に由紀の方から唇を重ねたのは、猫ならぬ人間同士の勢いと言うものだろうか。  芽生えかけた正体不明の感情が堰を切り、そのまま、互いに温もりを噛み締める時が過ぎて、 「あ、まずいっ!」  叫ぶと共に団は表通りへ向け、慌てて走り出した。 「ど、どうしたの!?」  団は腕時計の表示を睨んで叫ぶ。 「ピートが……急がないと……」 「だから、ピートが何っ!?」 「21秒後、あなたの頭上へご用心!」  意味不明の言葉を発し、団は全速力で表通りの雑居ビルへ走った。  そして、彼の頭上から大きな毛玉が落ちてきて……抱き留める形で直撃を受けた団は、後方へ倒れ込み、動かない。  強く頭を打った様だ。団の頭部を中心に、鮮やかな血だまりがアスファルトへ広がっていく。  その腕から抜け出した毛玉は、震える声で救急車を呼ぶ有紀の足元にうずくまり、「ニャア」と小さく鳴いた。  ピートだ。  ビル屋上に置かれた煮干へ惹かれ、縄張りパトロールの道筋を若干変えた末、端っこで足を滑らせたらしい。  猫の転落死を防ぐための事故。  団のプランBが導く因果の、これが結末なのだろうか?
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