十五 愛妻の小夜

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十五 愛妻の小夜

「石田さん。ありがとうございました」  幸右衛門は畏まって石田に礼を言った。 「義父上。堅苦しい事は抜きですよ。  川口さん。本木さん。ありがとうございました。二人が居たので助かりました。  さあ、皆さん。夕餉の刻限です。見世に戻りましょう」  石田は、本木と、日野道場に使いに行った川口に礼を言って御辞儀し、川口と本木を二人が警護している見世に帰して、幸右衛門と奉公人たちを石田屋に入らせた。  石田が石田屋に入ると、広い取り次ぎの間に義母の美代と奉公人たちが居た。 「旦那様っ。みつなりぃぃっ」  義父と共に草履を脱いで式台から上り框を上がると、廊下で待っていた小夜が走って石田に飛びつき抱きついた。 「怪我はないんだねっ」  石田の顔を見上げている。 「何もないですよ」 「よかったあ。みつなりに何かあったら、産まれてくる子どもに合わせる顔がありませぬ」 「子ができたのかっ」 「これからですよ。ねえ、早く夕餉を食べて、ねっ・・・」 「はい、その前に、厠へ行って、それから、顔を洗って手を洗ってきます。この手では小夜を抱きしめられぬ故・・・」  石田は小夜に手を見せた。じっとり汗ばんだ手だった。吉田一郎太を相手に酷く緊張していた・・・。 「早く行って来てね。夕餉を運んで、部屋に居るね」  小夜は笑顔で石田を見上げた。 「わかりました」  石田は、廊下を小夜の部屋とは反対方向にある、厠と流しへ急いだ。  小夜は、先ほど店の前の通りで行なわれた石田と浪人の立ち合いを、見世の格子戸から見ていた。  小夜には、石田が緊張しているようには見えなかった。いつもと変わらぬ穏やかな石田が通りに立ち、その石田を、まだ刀を抜かぬものの、浪人が凄まじい形相で斬ろうとしているのが小夜はわかった。  そして浪人が刀を抜こうと刀の柄を握った瞬間、石田の両腕が動き、浪人の手が柄から離れていた。  石田の動きは一瞬だった。その時の石田の動きを小夜ははっきり目に焼きつけていた。郷士の娘の小夜は、多少なりとも剣術の心得がある。  みつなりは浪人の動きの先を読んでいた・・・。これが父の話していた、先の先(せんのせん)だ・・・。あたしの旦那様は凄い人なんだ・・・。 「石田さんは居合いの達人。奢りのない、りっぱな人です・・・」  厠と流しへ急ぐ石田の後ろ姿を見ている小夜に、幸右衛門がそう言った。 「はあい。良き旦那様です。夕餉を運びます」 「あ、そうしておくれ」 「はあい」   みつなりも良き義父上と義母上を得ました、と話そうと思ったが小夜は話さず、いそいそと夕餉の膳を小夜の部屋へ運び、取り次ぎの間に戻った。  石田が厠と流しから取り次ぎの間に戻った。 「では、義父上、義母上、部屋に戻ります」 「はい、ゆっくり休んでおくれ・・・」 「はい・・・」  石田は義父と義母に挨拶し、小夜の手を引いて部屋へ向かった。  部屋に入り、二人並んで炬燵に入ると小夜が石田に寄り添った。 「あたし、心配だったんだぞ」 「心配をかけて済みませぬ」 「相手の殺気、凄かった・・・。みつなりの殺気、まったく無かった・・・」 「気ばかり先走っては、何事も旨くはゆきませぬ。  気は丹田に溜めるものです」  石田は臍下の腹部をぽんと叩いた。 「あたしへの思いも、そこに溜っていますか」 「はい、溜っていますよ」 「あたしにも、先の先を使いますか」 「先の先をよく知っていましたね。父上からの伝授ですか」 「剣は父からです。こちらは、みつなりからですよ」  小夜は笑顔でそっと腹部に手を当てた。 「では、今宵も・・・。さあ、夕餉にしましよう」 「はあい。旦那様」  小夜は笑顔で茶碗に飯をよそった。 (了)
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