三 徳三郎の説明その一 煮売り屋

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三 徳三郎の説明その一 煮売り屋

 話はふた月ほど前に遡る・・・  昨年。幕府は、 『非常時の混乱を避けるために、両国橋西詰めの通りを浅草御門の周囲まで広小路に拡張して、さらに和泉橋から昌平橋の北岸と、筋違橋御門(すじかいばしごもん)の周辺の通りも拡張する』  と沙汰を下した。  今年、長月(九月)初旬。  両国橋西詰めの通りから広小路へと拡張工事が始まり、取り壊された家の跡地に、土や石や杭など土木工事の材料と、工事道具が置いてある。    長月(九月)下旬。  昼八ツ(午後二時)。穏やかな日和りである。  お藤は隅田村の肥問屋仁藤屋(にとうや)を出て、北町奉行所へ向かった。大川東岸の街道を南へ下る藤はいつものように紺地に薄紫の小紋の小袖に雪駄履き、髪は玉結びで前髪は立てて膨らませた吹前髪だ。  昼八ツ半(午後三時)過ぎ。  北町奉行所に着くと、お藤は四半時足らずで、仁藤屋の新たな奉公人たちの人別帳の記載を済ませ、北町奉行所を出た。呉服橋御門を抜けて一石橋を渡り、通りを日本橋本町から大伝馬町、通旅篭町へと歩いて両国橋の西詰めへ向かった。  夕七ツ(午後四時)。  お藤は両国橋西詰めの通りに着いた。すでに一町ほど拡張工事が終わった両国橋西詰めの通りは、今日の拡張工事を終えた運脚や大八車引きと、大八車や馬子と馬、そしてその者たちに物を売る棒手振り(ぼてぶり)、煮売り屋などでごった返していた。  お藤は人混みをかき分けて両国橋西詰めへ歩いた。両国橋の袂に着くと担い屋台の煮売屋の傍にある樽に腰かけた。お藤の姿を見ると、周囲の運脚や大八車引きや馬子や棒手振り、商家の者たちが近くに来て、親しくお藤に挨拶して通り過ぎていった。 「蛤と冷酒をください。藤吉。手が空いたら話を聞いておくれ・・・」  煮売り屋は股引きを穿いて筒袖の小袖に腹掛け、黒足袋に草鞋履きだ。お藤の実弟で藤吉と言い、馬喰町界隈の香具師の元締だが、世間はそんな事を知る由もない。 「へい。お待たせっ」  藤吉がお藤の前にある飯台に、串に刺した大蛤の煮付け三本が載った皿と、冷や酒を満たした茶碗を置いた。 「これを・・・」  お藤は藤吉に心付けの四朱(一千文)を包んである紙包みを渡した。これから話す事は文などにはしたためられない。じかに話すしかない・・・。  お藤は冷や酒を飲んで蛤を口に入れた。  客足が減った。  藤吉がお藤の隣の樽に腰かけ、早めの夕飯に握り飯を食い始めた。  お藤は藤吉を見ずに囁いた。 「最近この辺りの無頼漢が刺客を雇った噂がある。無頼漢はこの馬喰町界隈の香具師の元締を探して消す気だ。気をつけろ・・・」  建前上、馬喰町の元締は、本所の香具師の元締、押上村の又三郎となっている。  しかし、押上村の又三郎は見せかけで、日本橋のように、真の元締は他所に居ると噂が流れている。事実、日本橋界隈の香具師の元締は、隅田村の肥問屋仁藤屋のお藤であり、日本橋界隈に住んでいない。表沙汰になっていないが、お藤は、今は亡き、田所町の廻船問屋亀甲屋の主の藤五郎の養女である。  田所町の廻船問屋亀甲屋の主の藤五郎は日本橋界隈の裏世界を牛耳っていた香具師の元締だったが、実際は江戸市中全域が各地の元締を通じて藤五郎の縄張りだった。  阿片の抜け荷をしていた藤五郎は、阿片の抜け荷が売人と配達人から発覚するのを恐れて二人を殺害したため、鎌鼬に斬殺されて抜け荷が発覚し、亀甲屋は取り潰された。  鎌鼬は、公儀(幕府)が放った刺客だと噂される暗殺者だ。町方は鎌鼬を探索しているが未だ鎌鼬の正体は不明だ。鎌鼬が悪人に天誅を下しているのは明らかだった。  藤五郎亡き後、藤五郎の甥を騙る廻船問屋吉田屋の吉次郎が香具師の元締めを継いだが、吉田屋吉次郎は刺客を使い、肥商いをじゃますると思われた隅田村の百姓を代表している世話役の弥助を斬殺し、藤五郎の養女のお藤をも殺害しようとしたため、吉次郎は鎌鼬に斬殺されて一味は捕縛された。  その後、吉田屋吉次郎の残党の福助一味が藤五郎の跡目を継ごうと、江戸市中の香具師の元締殺害を企てたがこれも発覚して福助一味は捕縛された。  お藤は亀甲屋の奉公人を気づかい、己が藤五郎の養女である事を隠していた。本来なら、お藤は養父藤五郎の殺人と抜け荷の咎を連帯して負う立場だったが、お藤が吉田屋吉次郎一味捕縛に協力した事と、今後の江戸市中の裏事情を北町奉行所に知らせる事で、北町奉行は最近(神無月(十月))になって、表沙汰にしないものの、隅田村の肥問屋仁藤屋のお藤を藤五郎の正式な跡目として認めた。  お藤が隅田村で肥問屋仁藤屋を切り盛りしているのは、そのような訳があった。  藤吉が声を潜めた。 「くそっ。また、邪魔者が来やがった・・・」  藤吉が通りの西を目で示した。若い無頼漢が三人、通りにいる運脚や大八車引きや馬子に罵声を浴びせ、大八車や馬などを蹴飛ばしたり叩いたりして両国橋の西詰めに近づいてきた。 「藤吉、屋台を守れ。他の煮売り屋にも、そう伝えろ」  お藤は藤吉を見ずにそう言い、蛤を食って冷や酒を飲んだ。  藤吉は屋台に戻って他の煮売り屋に用心するよう伝え、屋台にある無頼漢除けの棍棒を取った。他の煮売り屋も棍棒を手にしている。 「おやおや、姐さん。俺たちの島に御挨拶とは、すみませんねえ」  無頼漢の一人がにたにた笑いながら藤に近づいた。  お藤はこの無頼漢たちを知っている。取り潰された吉次郎の廻船問屋吉田屋に出入りしていた無頼漢だ。吉田屋があった新大坂町は亀甲屋があった田所町と通りを隔てた隣だ。お藤は状況を心得ていた。 「ここが島なら、おめえたちは、いつから無宿人の香具師になったのかえ」  両国橋西詰は馬喰町の香具師の縄張りだ。  お藤は冷や酒を飲み干して大蛤を刺していた竹串を握った。竹串は太く八寸ほどの長さだ。 「なんだとっ。潰された吉田屋の奉公人が、偉そうなことを抜かすんじゃねえっ」  無頼漢は懐から匕首(あいくち)を出した。樽に腰を降ろしているお藤の顔を目掛けて振りまわした。背後の二人も匕首を振りまわして周囲に群がる者たちを遠ざけている。  お藤は、無頼漢が振りまわす匕首から一瞬に身を躱し、冷や酒の茶碗を男の顔に投げた。ガツンと音を立てて茶碗が男の顔に当たった。男はその場にひっくり返った。  それを合図に、周りの煮売屋たちが天秤棒や竹竿や棍棒で無頼漢三人を叩きのめした。 「そこまでだっ。私が一部始終を見ていたっ。  岡野っ、松原っ。縄をかけて引っ立てろっ」  与力の藤堂八郎の指示で、同心岡野と松原と手下の岡っ引きたちが無頼漢三人を捕縛した。夕七ツ(午後四時)過ぎは、町方が広小路に拡張された両国橋西詰めを見廻る刻限だった。 「お藤。また、阿呆な奴らが現われたが、心配するな。私たち町方が見ていた。  ここに居る皆が証人だ」 「ありがとうございます」  お藤は、無頼漢が煮売り屋に因縁をつけた昨年と同じように、与力の藤堂八郎に深々と御辞儀した。 「皆の衆っ。昨年同様に、折あらば証人を頼むぞっ」  藤堂八郎がそう言うと周りから、 「へいっ」  と声が響いた。その声を聞きながら、藤堂八郎は同心たちと共に無頼漢を引っ立てていった。 「与力の藤堂様は、我ら香具師の恩人だ」  藤吉は与力の藤堂八郎を見送りながら、藤吉を馬喰町界隈の香具師の元締と認めた、特使探索方の上役の勘定吟味役荻原重秀に心の中で深々と御辞儀していた。
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