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八 検視
昼九ツ(午前十二時)前。
深川永代寺門前町の町屋の大家が、居間に男の死体を見つけた。
昼九ツ半(午後一時)。
検視現場で、藤堂八郎は仏の男を確認し、男の身元を話した。
「越前松平家下屋敷に詰める下級役人の小倅、加藤貞蔵だ。
ひと月ほど前、両国橋西詰めで只食いした挙句、煮売り屋に因縁を付けて狼藉を働き、居合せた唐十郎さんに諫められて捕縛された。
その後、評定所から、無銭飲食代の支払いと、これまでに壊した飲み屋と担い屋台の修繕費の支払いを命じられ、越前松平家の下屋敷ではなく、上屋敷でひと月の押込みの刑に処せられた男だ」
「今朝、道場に、隅田村の石田さんが来て、儂とあかねに、
『浪人を装った男が、はっきりは言わぬが、刺客の依頼と思われる件で訪ねてきたので断わった』
と報告した。男の脇差しには『丸に笹と違え鷹の羽の家紋』があったと話していた。
これの事じゃろうて」
日野徳三郎は、倒れている男の脇差しを示した。
斬殺による太刀筋を見極めるため、日野徳三郎は北町奉行所から、検視方を仰せつかっている。
「石田さんは、今朝、私にもその事を報告した。
此奴は、石田さんに依頼を断わられ、その足でここに来たのか」
「経緯を探る前に、検視いたしましょう」
日野徳三郎は飛び散った血と男の首筋の斬り傷を示し、藤堂八郎と検視方で検視医の町医者竹原松月に囁いた。
「急所のみを突く見事な太刀捌きですな。相当な手練れです。
おそらく、斬った者は返り血を浴びていないでしょう」
「如何にもそうですな。ここで斬られ、おそらく一瞬に意識が薄れて事切れた。痛みはさほど無かったでしょう」
竹原松月は座敷に流れた大量の血潮を示した。男の左側だけに血が飛び散っている。
検視医の竹原松月は、神田佐久間町の町医者で名医の誉れ高く、公儀お抱えの隠れ寄合医師だ。(寄合医師とは、世襲の医家の生まれで、いずれは公儀(幕府)の医官となるが、まだ見習いの者。平日は登城せず、臨時の場合に備えた)斬殺事件では、日野徳三郎と共に仏を検視している。
「鎌鼬ですか」と藤堂八郎。
大店の悪徳商人や夜盗が斬殺される事件が続いている。斬殺したのは御上が放った刺客で『鎌鼬』だと噂されている。町方はおろか、特殊斬殺事件解決に組織された特使探索方でさえ、未だ下手人の目星すらつけていない。
「鎌鼬ではなかろう。この男、座った状態で左の頸動脈を斬られとる。
抵抗していないところを見ると、斬った者は顔見知りで、しかも対座していた。
この家の住人の素姓は如何ですか」
日野徳三郎は藤堂八郎に、この家の住人の身元を確認した。
「大家によれば、この家を借りていたのは総髪茶筅の浪人風の男で、越前松平家下屋敷詰めの役人の、加藤貞蔵だと言ってました。
しかしながら加藤貞蔵はこの仏なれば。この家を借りていた浪人は加藤貞蔵ではなかろう」
藤堂八郎は仏を見たまま考え込んでいる。
越前松平家の家臣、加藤貞蔵がここで斬殺され、この家を借りていたのが総髪茶筅の浪人風の男で、越前松平家の家臣の加藤貞蔵となると、事がやっかいになる。藤堂様は如何様にこの事件を扱うのだろう、と日野徳三郎は思った。
「実は日野先生たちが来る前に聞き込みをしました折に・・・」
藤堂八郎は、検視が始まる前に燐家へ行き、この家を借りていた加藤貞蔵について聞き込んでいた。
検視開始前。
「隣に住んでいた者について教えてもらえませぬか」
藤堂八郎は燐家へ行って住人の安芸に尋ねた。
安芸は元深川芸者で、今は日本橋呉服町の呉服屋越前屋福右衛門の妾だ。加藤貞蔵が仏となった家の燐家で、娘の華と二人暮しだ。日頃、謡や三味線、踊りなどを芸者たちに教えている。越前屋福右衛門が『女房と大番頭による刺客事件』で女房と大番頭を離縁して以来、越前屋福右衛門に女房が居ない。そのため、安芸は福右衛門から、女房になって店の女将になってくれ、とせがまれているが、頑として断り、妾のままである。
藤堂八郎の問いに安芸が答える。
「名は加藤貞蔵。越前松平家の下屋敷詰めの役人と言ってました」
「隣家で、仏と加藤貞蔵が同一人物か確認して欲しい。無理強いはしませぬ。
如何ですか」
「ようござんす」
安芸は藤堂八郎に導かれ、同心たちがいる燐家に入った。
「草履のまま上がって下さい」
「私が知っている加藤貞蔵ではありませぬ。ここの住人ではありませぬ。
顔も髷も身体も違いまする」
燐家に入って玄関から仏を見るなり、安芸は断言した。
燐家を借りていた加藤貞蔵は浪人風の総髪茶筅の髷をしており、体躯はがっしりと大柄だった。仏の加藤貞蔵は屋敷詰めの侍風の髷で、体躯は痩せぎす小柄だ。明らかに違う。
「安芸さんが知っている加藤貞蔵は、ここで何をしていたのだ」
「下屋敷内ではできない事をしていたようです」
「逢い引きでもしていたか」
「ええ、さようでござんす。相手は芸者の沙織です。昨日から顔を見ておりませぬ」
「駆け落ちでもしたか」
「本人はその気でしたが、加藤貞蔵にはその気がなかったようです」
「じゃまになって消されたか」
「そうかも知れませぬ。家に戻って娘の華に訊いてみましょう」
安芸は藤堂八郎と共に家に戻り、娘の華に訊いた。
「沙織の事を聞いていないかえ」
「加藤さんの越前の国元へ行くと言うから、雪国は冬が厳しいと話しました。
越中の毒消し売りがこちらに来て、二度と国元へ帰りたくない、と話してましたから。それならばと、沙織の国元へ行くのを勧めました。下総の市川です」
「市川ならここから歩いて半日だな・・・」
藤堂八郎は、なぜか、沙織の説明に納得ゆかなかった。
「市川へは行っていない、とお思いですか」
華は藤堂八郎を見つめている。
「駆け落ちするなら、ここで男を殺さぬだろう」
藤堂八郎は燐家を示した。
「では・・・」
華の顔色が変わった。
「うむ。それを気にしておる」
燐家に住んでいた浪人が加藤貞蔵を殺して逃げるのであれば、女は足手まといだ。
浪人の動きを知っているであろう女が行方知れずなら、消されたと見るべきだろう。
「隣に住んでいた加藤貞蔵が仏を殺害したのですか」と安芸。
「まだわからぬ。
私はこれにてお暇する。隣に居るから、何か思い出したら教えて下さい」
「あい、わかりました」
「では、よろしくお願いします」
藤堂八郎は安芸に礼を述べ、安芸の家を出た。
藤堂八郎は燐家での聞き込みを説明し終えた。
仏の横では、同心と岡っ引きたちが仏を運ぶ準備をしている。
日野徳三郎は言った。
「仏が加藤貞蔵で、ここに住んでいたのが別人の加藤貞蔵とは如何致したものか」
町医者竹原松月が呟いた。
「この仏が名を貸していたのでありませぬか。ここに住んでいた浪人は仏に恩があるから、仏はそれを承知で浪人に刺客を依頼した。刺客の依頼は御法度ですから、ここに住んでいた浪人は仏を説得したが、聞き入れないので成敗した。
ここに住んでいた浪人は越前松平家の家臣か、それ以上の役職の公儀の役人でしょうな。家臣を斬ったところで、刺客を依頼したので斬った、と言えば何とかなりはしまいか。
ここに住んでいた浪人が仏を斬ったとした場合の話です。
あっ、いや、年寄りの戯れ事とお思い下され」
町医者竹原松月は自分の考えを述べて恐縮している。これが町医者竹原松月の説得の手なのを日野徳三郎は良く分かっている。
「松月先生。仏を斬った浪人が越前松平家の目付役配下の役人、もしくは公儀の鳥見役人としたら、松月先生の推測は大いに有りますぞっ」
藤堂八郎はそう言って納得している。
鳥見役人とは、公儀若年寄直属鳥見組頭配下の鳥見役人、すなわち、公儀の隠密役人だ。鳥見役人は大名屋敷の探索など、あらゆる事を隠密裏に調査する。
藤堂八郎の言葉に、日野徳三郎は問い返した。
「仏が役人に弱味を握られていたとすれば、それは何だとお思いか」
「藤堂様。こんな物が襟に」
同心岡野智永が、細く折りたたんだ紙切れを差し出した。同心野村一太郎と同心松原源太郎は仏の着衣を確認している。
藤堂八郎は紙切れを開いた。二枚の証文だった。
「五十両の受け取り証文と、この家の借家証文だ」
吉田真介という者が仏の加藤貞蔵から五十両を受け取り、さらに加藤貞蔵がこの家を借りていた証文だったが、加藤貞蔵を仏にした者が吉田真介との確証も、ここに住んでいた浪人が吉田真介との確証も、その浪人が加藤貞蔵を斬殺した確証もなかった。
「さて、仏を如何したものか」
江戸市中で起きた事件は、被害者と加害者が武家であっても町奉行所の管轄だ。しかし、両者が越前松平家の家臣や、公儀の役人となると、話がやっかいになる。
「他に何か見つからぬか」
「有りません」
「仏は北町奉行所へ運べ。事が終わったら大家に伝えろ」
「分かりました」
「いや、松原。大家を呼んでくれ」
「分かりました」
同心の松原は大家を呼びに、その場から去った。
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