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その女性が近くに来るのを見計らって、私は彼女が首から下げているIDカードをもう一度凝視してみた。
すべて英語で書かれている上に、一瞬だったのでまったくわからなかったが、「W」という文字があるのだけは、それでもかろうじて確認できた。
それぞれに配布されたクリアファイルを、女性たちはとくに指示も待たずに、勝手にとって眺め始めている。隣のナス女もそうしている。
私も、おずおずとそうしてみた。中にはペラ一枚のA4サイズの、履歴書に近いような紙が入っていて、顔写真までついていた。
名前の欄には、「栗山律子」とはっきり記されている。
ナス女を見てみると、自分に手渡された用紙に黙って目を落としていた。その表情は、例えるならーー気のないまま遠い親戚のお墓参りにきて、気のないままお線香をあげ、気のないままお参りを済ませ、目の前の墓石をただ眺めている、そんな感じだ。
私はその、ナス女の次の相手がどんな人物なのかーー見てみたい衝動を抑えられなかった。でもそれは、さっきのブリーフィングでも厳禁されていた。当然ナス女も、決して見せようとはしないだろう。
っていうか、あらためて私は、このようにして私の個人情報が、ナス女にここで閲覧され、結果あの恵比寿での闘いに至ったという、その一連の流れを想像してゾッとした。
この事実だけでもうーーどこかに訴え出られるレベルの話なんだと思うけど、それにしても妙にあの、IDカードを首からぶら下げた二人の女性が自信ありげに見えるのは、なぜなんだろう。
さっきのーーあの超法規的措置、という言葉がまた、にわかに私の頭の中に点灯し始めていた。
「……それでは以上です」
正面の女性が両手を目の前の机に置いて言うと、そのまま二人して、出てきた扉から退出していった。と、言うが早いか、室内の女性は皆いっせいに帰り仕度を始める。
とりわけ前の方にいた山芋女はそれが早くて、机のあいだの通路をノシノシと、でもすごいスピードで歩き去っていった。私は絶対に目を合わせないように体を縮こませ、顔を背けていたが、一瞬だけチラッ、と顔を見られたようで気が気でなかった。
おずおず後ろを振り返ると、大股で出口の扉のノブをつかんで、外に出てゆく。
私は多少ホッとしつつ、すぐにも次のことを考えていた。
今日、あの山芋女やナス女とこの会合に出席しているということは、次に彼女たちと闘うのは、可能性としては次々回以降になる。
ということは、これを最後に、しばらくは会えない、ということだ。
正直私は、これからどうしたらいいのか、不安でいっぱいだった。
クリアファイルを肩掛けカバンに入れ、スマホを握りしめて席を立とうとするナス女に、私はまた声をかけた。
冷ややかな目で、私を眺め見る。
「あの……もしよかったら、これからどこかでお茶でもしませんか?」
お昼どきは過ぎていたので、ランチというわけにはいかないけどーーなにかスイーツでも食べて、ハーブティーなど飲んでホッとしたかった。そして何よりも、目の前のナス女から、少しでもさらなる情報を引き出しておきたい。
「この近くにパンナコッタプリンの美味しいお店、知ってるんですよ」
この奇妙で殺伐とした雰囲気の空間に、パンナコッタプリン、という言葉がとりわけ可愛らしく、そして平和裡に響いた。
「……おっ、お茶?」
ナス女が、一瞬目を見開いた。
「ええ」
「……パッーーパンナコッタプリン?」
「えっ?……ええーー」
とたんにナス女の表情が、驚愕の顔つきに変わった。
口元はワナワナと震え始め、さらに目を見開いて、この私を見ている。
「あっ、あの……」
すると、あのときと同じ「匂い」がーー瞬間的にこちらに漂ってくるのがわかった。同時に周囲にいた全員の女性が、そのことに気づいて振り返る。
と、一斉に失笑が引き続いた。ちょっとあの子、何してんのよ、という声が、どこかから聞こえてくる。
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