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「『今の任務が何か』と訊いたな。問題新人とその指導担当警官の調査だ。主に実務研修中(オン・デューティートレーニング)の連中の」 「やっぱり、こちらでもトレーニングに関係する仕事に携わっていらっしゃるんですね」 ジャックは納得したように言った。 「というよりも、担当者のいない業務を全部押し付けられているようなものかもな、建前ではセントラル・リージョン全体が担当だから、あちこちと動き回らされている」 俺は思わず、愚痴めいたものを口にしてしまう。 ジャックは、先ほどとはうってかわって可笑しそうに口元をほころばせていた。 俺はジャックの深緑色の瞳を、少しの間見つめる。 ジャックの表情が変化しそうになった瞬間、再び視線をダイニングテーブルへとそらした。 「金曜日にはサンダーベイくだりまで行く羽目になっている」 俺がこう付け足すと、ジャックは「サンダーベイ」と呆れた口調で繰り返し、軽く肩をすくめた。 つられて、思わず溜息をついたところで、俺はふと先ほどまでの空腹を思い出す。 「ところで、昨日からろくに喰っていなくてね、腹が減っているんだ。さっきのサンドイッチを食べたいのだが」 ジャックは慌ててパニーノが入った紙袋を取り出した。 そして、中を覗いてから、シンクの上の戸棚から皿を一枚取り出す。 俺は椅子に座ったまま手を伸ばして、ジャックの持っている袋を掴み、それを引き取った。 紙袋を真ん中から裂いて平らにし、ジャックがテーブルの上に置いた皿の上に載せる。 「朝飯が済んでないなら、一緒にどうだ」 ジャックは微笑して戸棚からマグカップを取り出すと、自分の分のコーヒーを注ぎ始めた。 「二種類ある。どっちを喰いたい?」 ジャックがコーヒーを注ぎやすいように自分のカップを差し出しながら、俺は尋ねる。 「パニーノの中身は何です?」 ジャックは、俺のカップにコーヒーを注ぎ足した。そして、サーバーをマシンに戻し、また、俺の方に向き直った。 俺はジャックに礼を言い、「バジルチキンと、トマト・チーズ」と、それぞれのパニーノを指し示す。 「では、バジルチキンを」 ジャックは妙にすんなりと「選択」を済ませた。 俺はジャックに、「トマトチーズの方」を手渡す。 怪訝そうな顔をしているジャックに向い、 「相手が選んだ物の方が、美味そうに見えないか?」と言って、自分はバジルチキンを手に取った。 ジャックは軽く吹き出したが、「では、トマト・チーズを選んでいたということにします」とすまして言い返す。 俺は一瞬憮然として見せたが、気を取り直し、今度はバジルチキンをジャックに押し付け、もう片方の手でジャックが手にしているトマトチーズの端をつまみ、軽く引っ張った。 ジャックは溜息とも笑い声とも付かない声を立てると、トマトチーズを皿に戻す。 「分かりましたよ、両方とも食べてみたいんですね?」 「二個は喰えない」 「じゃあ、真ん中から半分に切れば良いじゃないですか」 ジャックは再びシンクの方を向くと、引き出しからペティナイフを取り出した。 俺もバジルチキンを皿に戻し、「賢いな、コーポラル」と言い足す。 ジャックがパニーノをそれぞれ半分に切り分けると、俺は先にバジルチキンを手に取って、ニ、三口で平らげた。 いける味だ。 ジャックは相変わらず立って壁にもたれ、コーヒーを飲みながら、俺の様子を見つめている。俺は皿を持ち上げて、ジャックの方に差し出した。 「喰わないのか? なかなか悪くない」 ジャックは残りのバジルチキンを手に取る。 俺は皿を再びテーブルに戻した。 「なんだって、ここには椅子が一脚しかない?」 ジャックに問いかけて、俺はマグカップを口に運ぶ。 「『なぜ』って……。今まで、必要性を感じませんでしたので」 「『今まで必要性を感じませんでしたので』?」 俺はジャックの口調を真似て揶揄った。 「いけませんか?」 ジャックは突っかかるように言い返してきた。 俺はトマトチーズの片割れを手に取ると、バジルチキンと同じように、さっさと食べ終える。 「なあ、ジャック……」 「はい?」 「両方喰ってみて思ったのだが。バジルチキンの方が美味いな、どちらかというと」 「そうですね」 ジャックは即座に同意した。 だが、皿にはトマトチーズの残りが手つかずで残っている。 「なんだ、喰ったことあったのか、ジャック」 俺は椅子の背もたれに片肘をかけて、軽くのけぞった。 「地元ですから。よく買いますよ」 ジャックは、軽く声を立てて笑う。 「だったら最初から、バジルチキンの方を喰えばよかったのに。片方しか喰ってなければ、トマトチーズも悪くはないと、俺も思っただろうさ」 「そんな、だってそれは、サージェント・メイジャが……」 「『だってサージェント・メイジャが』だって? ジャック、さっきも言ったとおり、俺は『今のポジションを大層気に入っていて仕方がない』なんてことはまったくなくてね。いつまで、そんな長たらしい呼び方を続けるつもりだ?」 「では、なんとお呼びすれば」 ジャックは、困惑気味に尋ねた。 「呼びたいように呼べば良い」 俺はトマトチーズの残りが載った皿を、ジャックの方へと押しやる。 「ただし『スタンリー』以外だ」 ダイニングの椅子から立ち上がり、俺はリビングルームへと向った。 「それにしても、何もないな、この家は……」 ソファーの横のベランダにかかっているボイルのカーテンを指でずらし、窓の外を眺めてみる。通りの向かい側のフラットも、ここと似たような感じだ。 「まるきり学生寮だな」 ジャックはテーブルの上の皿とカップをシンクに移すと、俺の方へ少し歩み寄り、また壁にもたれながら、 「学生だって言いましたよね?」と応じる。 俺はソファーの横の棚に、ノートPCと様々なプリントアウトを見つけた。 よく見ると、本も幾らか置いてある。 「何をやっているんだ?」 「大学で、いくつか講義を取っています」 ジャックは曖昧に答えた。 俺は棚を眺め、本の背を中指で引き、何冊か抜き取った。ジャックが壁からはなれて、俺の方に近付いてくる。 「何だ、これは。社会学か、こっちは『基礎心理学』? どうせなら、オタワの警察大学の講義に出たらどうだ。お前のボスには口をきいてやるが?」 俺は、棚から出した本をジャックに渡しながら言った。 「いずれは、警察大学の単位を取りたいとは思っています。そのための準備なんです」 ジャックは俺から受取った本を、まるで初めて見る物であるかのように見つめ、そして、そのまま目を伏せる。 「ここは、オフィスにも大学にも通いやすいですから」 「真面目だな、ミシェル上級巡査、昇進も順調のようだし?」 ジャックは本をソファーの上に置くと、俺を見上げた。 「いつ……ご結婚なさったのですか? わたしがアカデミーにいた頃には、もう?」 「さあな、お前が在籍してたのは、いつ頃になるかな」 俺は、ポケットからリトルシガーのパックを取り出した。 「吸っても?」 「在籍は、九十七年です」 喫煙への同意のしるしとして静かに頷いてから、ジャックは答えた。 俺はシガーに火をつけ、ゆっくりとふかす。 「では、その後だ。結婚は九十八年だった。で? それが一体何だっていうんだ、昨日から」 ジャックは、返事をせずにテーブルの方へ戻って行った。 「ジャック」 俺はその背中に向かって続けた。 「アカデミーの頃から、お前が俺に気があったってことは判ってた」 テーブルの所で立ち止まると、ジャックは俺の方を振り向かずに言う。 「……結局、僕が勝手に思ってただけのことですから」 「そうなのか?」とだけ答えると、俺は大股でジャックに近づいた。 するとジャックは、急に俺を振り返り、声を荒げる。 「だって……あなたはいつもポーカーフェイスだったし、それに結婚だってしてるじゃないですか!」 「お前の事を良く覚えていたって言うのは、別に成績が良かったからだけじゃない」 「嘘だ! 僕の事だって、たまたま遭ったからから思い出しただけだ」 「抱いてみたいと思っていた」 「そんなの……信じられない。だって、奥さんのこと、もう愛してないの?」 「いや」 俺は否定の言葉の後、更に続けた。 「『もう』じゃない、『最初から』だ。愛してなんかない」 「じゃあ、なぜ結婚なんか」 ジャックは虚をつかれ、戸惑うような口調になっていた。 「さあな、年齢かな。職場の連中の詮索をかって、無駄なエネルギーを使いたくもなかった」 「奥さんを、利用したんだ?」 ジャックは責めるように言う。 「結婚なんて、互いを利用し合っているようなものだろう?」 俺は肩をすくめてみせた。 「もう良いか? いつまでもこんな無駄話を続けている時間はないぞ」  「あなたは……僕がまだ、あなたのことを好きだとでも思ってるの?」 俺は溜息をつき、ジャックの肩を掴んで振り向かせる。 「いちいち、バカバカしいことを」 そして、手にしていたシガーをシンクに投げ入れ、ジャックを引き寄せて抱きしめ、顎を掴んで口づけた。  ジャックは俺の腕から自分の身体を引き離そうともがいていたが、何度か唇を吸っているうちに、観念したように力を緩める。 俺はジャックの顎を更に引き寄せ、舌をもっと奥まで差し入れた。 ジャックは手を俺の肩へと回して、キスに応え始めた。しかし、すぐに顔をよじるようにして、俺から唇を引き離し、喘ぎながら言う。 「アカデミーを終了してからもずっと、忘れられなくて。公報(ガゼット)であなたの名前を探したり……。でも、決めたんだ、忘れようって。もう何年も前に」 「それで?」 俺は腕の力を緩めずに尋ねた。 「……なのに、勝手だよ。あの時は完全に無視しておいて、今度は僕の心にいきなり上がり込もうとする」 俺は今一度、ジャックの顎を掴む手に力を込め、その深緑色の瞳を見据えた。 「では、何か? レジャイナ(アカデミー)で、俺がカデットの(バラック)に夜這いにでもいくべきだったとでも言うのか?」 ジャックは、俺の手を自分の顎から引きはがそうともがきながら、さらに声を荒げる。 「ずるい! 今さら……そんな格好で姿を見せるなんて」 「何が?」 「あなたが、制服を着ているのは駄目なんだ……見ると」 「俺に抱かれたいんだろう? ジャック」 俺はジャックの顎から手を離した。 「だったら、早く脱がせろよ、この窮屈なヤツを」 ジャックは、ブルーサージを俺から引きはがすと、ドレスシャツのボタンの隙間から、長い指を滑らせてきた。 ゆっくり、俺の肌を指の腹でなぞっていく。 「なんて呼びたいんだ?」 俺はタイを自分で緩め、第一ボタンを外しながらジャックに尋ねた。 ジャックは、あらわになった俺の首に何度か口付けをしてから、耳元でこう囁く。 「……『スタン』だ。昔からずっとそう呼んでた、心の中では」 「それなら上等だ」 こう答えながら、俺はジャックの吐息と同様、自分の呼吸も次第に激しさを増していることに気が付いた。   ベッドルームに場所を移すことなく、互いにオーラルで達した後、ブランケット一枚だけ掛け、俺たちは裸でリビングルームの床に転がっていた。 「……なぜ?」 ジャックが、突然口を開く。 「どうして、『スタンリー』は駄目なの? 奥さんはそう呼んでた。だから?」 「そもそも俺の名前は『スタンレイ』だ。何遍説明してもニーナには判らないようだが」 俺は、自分のジャケットを手探りで引きよせ、ポケットからリトルシガーとライターを取り出す。 「不思議な、甘い香りがする」 言ってジャックは、首までブランケットを引き上げた。 俺が怪訝な顔で見つめ返すと、ジャックは続ける。 「それ、タバコが。フィットネスの教官なのにそんなの吸ってて。スタン、走れるの?」 「走り回らなきゃならんのは、俺じゃなくてお前たちカデットの方だったからな」 俺は煙を吐き出しながら、あっさりと言い返してやった。 「シャワーを借してくれ」 俺は床から起き上がった。 バスルームへと歩きながら、一度、ジャックを振り返る。 「それから、これはタバコじゃなくて、シガーだ。正確に言うと」 俺がシャワーを使っている間、ジャックは「昼食に」と、チーズマカロニを準備していた。
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