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翌朝、俺はニーナとごく普通に食事を取り、家を出た。
ニーナは制帽を手渡しながら、激しく抱きついてきて腰を撫で、濃厚なキスで俺を見送った。
発車させてしばらくすると、制服についたニーナのローズアブソリュの香りが、やたらと鼻につき始める。
さっきのディープキスを思い出した瞬間に、朝食が喉の奥にこみ上げるのを感じた。
急いで車を寄せ、外に飛び出す。
俺はその場で激しく嘔吐した。
朝喰った物をほとんど吐き出してしまったのに、むかつきはなかなか収まらなかった。
吐き気をこらえ、何とか運転を続けたが、北局の自分のデスクに着いて椅子に座りこんだ時には、激しい眩暈までしてくる始末だった。
「サージェント・メイジャ? ハンセン準警部、どうかなさいましたか」
背後から声をかけてきたのは、古参のチェインバース上級巡査だった。
彼女から他人を気遣う様な発言を聞くのは、これが初めてかもしれない。
「……何でもない」
放っておいてくれ、という言葉はかろうじて飲み込み、俺は襟に人差し指を差し入れてタイを緩めた。
「しかし……酷い顔色をしておいでです」
チェインバース上級巡査は、なおも俺に話し掛ける。
「大丈夫、少し気分が優れないだけだ。じきに治るだろう」
「なにかお持ちしますか?」
チェインバースが言葉を続けた。
「コーヒーを……一杯もらえると助かる」
彼女はすぐに、プラスティックカップにブラックコーヒーを注いで運んできた。
俺はコーヒーに口をつけながら、
「チェインバースにコーヒーを注いでもらったのなんて初めての事だな」などと、ボンヤリ鈍った頭で考えていた。
じきに、眩暈は幾分か楽になった。
だが一日中、断続的に襲ってくる吐き気には悩まされた。
俺はかろうじて、その日のスケジュールを終了させる。ろくに食事もできなかった。
これから一時間も運転して家に戻るなんて、考えただけでもウンザリだった。
気づけば俺は、セントクレア・ウェスト駅の方向へ車を向けていた。
そして、ジャックのフラットの下に駐車し、運転席に座ったまま窓を見上げる。
ジャックの部屋に照明が点いているのかどうかは、判然としなかった。
瞼を閉じ、数回溜息をつく。疲れが一気に押し寄せてきた。
シートの中に身体が沈み込んでいってしまいそうで、俺は無理矢理に目を開ける。
視界はしばらくの間グレーがかっていた。
軽く首を振り指先で目頭を強く押さえる。そして、内ポケットから携帯を取り出した。
「ハロー、スタン?」
ほんの一、二コールで、ジャックの明るい声が弾けた。
「……ああ」
俺は短く返事をするのが、やっとだった。
「どうかした? 今、どこ」
「お前は? ジャック」
「家にいる。シフトは十六時までだったから」
しばらく黙っていると、ジャックは気を回したのか、少し声を落とし、こう言った。
「サージェント・メイジャ、今、どちらに? 勤務中ですか?」
俺は笑い声を立てようとしたが、それはまるで溜息の様になってしまった。
そして、
「お前のフラットの前にいる」と続ける。
フロントグラス越しに、ジャックの部屋の薄暗い窓のボイルのカーテンがめくれ、人影が下を覗き込む様子が見て取れた。
「びっくりした。どうしたの? こっちに上がって」と、声をこわばらせるジャックに、
「そうしよう」と返事をして、俺は電話を切った。
辺りにひと気がないのを確認してから、制帽とブリーフケースを抱えて車を降りる。
急いでフラットの玄関に入った。
エレベーターに乗りこんだ途端、再び吸い込まれるような眩暈に襲われる。
玄関のベルを鳴らした後は立ってもいられず、扉に身体を半ば寄り掛からせていたから、ジャックがドアを開けた瞬間、俺はよろめくように部屋の中に倒れこんだ。
ジャックは咄嗟に、腋から肩に両腕を回して、俺をしっかりと支える。
「スタン、スタン? どうしたの!」
俺は壁に手をついて自分で体勢を立て直そうと試みた。
その瞬間、激しい吐き気がこみ上げるのを感じ、ジャックを押しのけ、よろめきながらバスルームへと倒れこむ。
床にしゃがみこみ、激しく咳き込みながら便器に胃液を吐き出していると、背後にジャックの気配がした。
一通り戻して、吐き気がおさまっても立ち上がることができず、俺はバスルームの床にうずくまっていた。
大量に流れ出た冷や汗のせいで、ドレスシャツが身体に纏わり付いている。
ジャックは、俺の制服のジャケットを静かに脱がせ、タイを手早く解くと、大きな乾いたバスタオルを背中から掛けた。
それから、自分も床に座り込むと、俺の肩に手を回してゆっくりと引き寄せ、膝枕をするように俺を横たえた。
乾いたバスタオルの肌ざわりを通して、ジャックの掌のぬくもりを感じる。
何度か深い溜息をつき、俺は瞼を閉じた。
ジャックの穏やかな愛撫を受けながら、しばらくの間バスルームの床に横たわっていると、すこしずつ気分が落ち着いてくる。
わずかにウトウトと意識を無くし、再び瞼を開ければ、ちょうどジャックは、俺の瞳を覗き込んでいた。
「スタン、大丈夫? これ、飲めそう?」
そう言いながら、ジャックは水の入ったマグカップを手に取った。
ジャックに支えられながら、身体を起こして水を飲む。
「もう少し飲める?」
ジャックはミネラルウォーターのボトルを手にとって、再びカップに注いだ。
二杯目を半分くらいまで飲んで、俺はカップから口を離す。
「突然、悪かったな。迷惑を掛けた」
「風邪ひいちゃうから、着替えないと。スタン」
ジャックは俺の手からカップを取り、床の上に置くと、もう一度タオルで俺を包みなおして微笑んだ。
バスタブに手を付いて、なんとか立ち上がる。
ジャックは向かいのベッドルームまで、俺の腕を掴んで支えた。
母親に着替えさせられる子供のように、ジャックに手伝われながら制服を脱ぎ捨て、俺はジャックが出してくれた服に着替える。
そしてそのまま、ベッドに身体を横たえると泥のように眠りこけた。
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