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王立カナダ騎馬警察(RCMP)警察学校(アカデミー)の教え子だったジャックと再会したのは、今から三か月程前だ。 本当に、偶然の出来事だった。 二月のある土曜日の晩、妻のニーナにつき合わされ、ミュージカルを見た後のことだ。 俺とニーナは劇場街をセント・アンドリューの方に向かって歩いていた。 トロントは冬真っ盛りで、俺は、さっさとどこかからか地下街(ウォークウェイ)に潜り込む事ばかり考え、『地下入口(パス)』の表示を探していた。 最初に気が付いたのは、ニーナだった。 「ねえ、見て。あそこにいるの騎馬警官(マウンティ)じゃない?」 確かにそうだ。 十五メートル程先に、ストームコートとファーキャップで重装備したマウンティ二人が、パトロールカーにもたれ、コーヒーを飲んでいた。 さほど目立つも言い難い肩章で気が付いたのか、それともコートの隙間から見えるスラックスの金の側線に目を止めたのか、いずれにせよニーナは相当に目ざとい。 「そのようだな」 ごく気がなさそうに、俺は返事をする。 「めずらしいわね。こんな所にRCMPが居るなんて。何かあったのかしら?」 ニーナは相変わらず、警官に視線を向けたままだ。 「何って、任務だろう? 何があったかどうかにかかわらず」 無関心な口調でニーナに言ったが、俺は、ニーナよりもずっとさりげない視線で二人の警官をチェックしていた。 階級章。 ひとりは巡査部長(サージェント)、もうひとりは上級巡査(コーポラル)だ。 「ニーナ、地下に入ろう。寒い」 俺はニーナの腰を引き寄せ、 「制服なら、俺の方が似合う」と、耳元で囁いた。 すると警官の若い方、ブロンドのコーポラルの方が紙コップから口を離し、視線を寄こした。 同僚にコーヒーを預け、こちらに向かって大股で近付いてくる。 五、六歩程、足を進めたところで、コーポラルは、俺に呼びかけた。 「警部(スタッフ・)(サージェント)? もしかして、ハンセン教官ですか?」 呼びかけられる前に、俺はすでに、そいつが誰だか気付いていた。 四、五年前、レジャイナのアカデミーで訓練生だった男だと―― 「今もレジャイナに、『馬寮部(デポ)』にいらっしゃるのですか? ハンセン警部補。覚えておいでじゃないかもしれませんが、四年半前、レジャイナの警察学校(アカデミー)で教官から訓練を受けた……」 「ミシェル。ジャック=バティスト・ミシェルだろう」 俺はコーポラルの深緑色の瞳の奥を見つめ返した。 「スタンリー、お知り合い?」 肩の辺りからニーナの声がする。 口を挟みたくて堪らない、という感じだった。 「覚えて下さってたなんて……光栄です」 数年前と全く変わらない笑顔でジャックは言った。 シャイなようでいて真っすぐにこちらを見つめ返す、仔犬のような瞳だ。 ニーナに向かって軽く微笑んでみせてから、俺はジャックに答えた。 「担当した訓練生(カデット)は、ほぼ全員覚えている。優秀な者は、特に」 パトロールカーのところに立っていた巡査部長の方も、興味をそそられたのか、こちらに歩み寄って来た。 「ジャックの時のアカデミーの教官で?」 ジャックが、俺に『警部(スタッフ・)(サージェント)』と呼びかけたのを聞いていたらしく、口調は丁寧だった。 ドングリの実のような色の瞳をした男だ。鼻筋が少し曲がっている。ひょっとすると俺より少し年上かもしれない。 がっしりとした体格の持ち主、とお世辞を言えなくもないが、どちらかというと、プライム・リブとフレンチ・フライを食べ過ぎた『マスティフ犬』といった印象だった。 今、こいつにアスレチックのタイムトライアルをやらせたら、アカデミー修了は絶望的だろう。 「そうなんだ、ロイ。こちらハンセン教官、フィットネスとタクティカル・オペレーション担当だったんだ。もう、おそろしく厳しくて」 ジャックは「マスティフ犬」に向かって言う。 「ロイ・ガードナーと申します。サージェントです」 マスティフ犬は、律儀にもバッジとIDを提示しながら、右手を差し出した。 分厚いグローブで覆われたガードナーの右手を握り返し、俺もポケットから(オフ・)(デューティー)用のIDを取り出した。 「スタンレイ・ハンセン準警部だ。よろしく、サージ=ガードナー」 ガードナーへの俺の自己紹介を聞くやいなや、横にいたジャックが慌てふためいて口を開いた。 「申し訳ありません。教官、昇進なさったんですね」 その様子を見ながら、ニーナが小声で笑っている。 「どちらでも構わない。大した違いはない」 俺はなだめるように言ったが、ジャックはバツが悪そうに、しきりと帽子のファーの部分を引っ張っていた。 「わたしの時のフィットネスの教官も厳しかったですねぇ、いまだに夢に見ますよ」 ガードナーは、俺とジャックに向かって言うともなしに言うと、ちらりとニーナに視線を向けた。 俺はニーナの腰に添えていた手を肩に動かし、軽く叩いて見せる。 「紹介が遅れたが、妻のニーナだ」 ニーナは待ってましたとばかりに、妖艶に微笑んだ。主にジャックに向かって。 「初めまして、ミセス・ハンセン。ジャック=バティスト・ミシェルです。教官には大変お世話になりました」 ジャックは、先ほどの俺に対する非礼を取り戻そうとするかのように、ニーナが差し出した手を、グローブを外した自分の右手で恭しく取った。 ニーナがサージ・ガードナーとも軽く握手を交わしたところで、ガードナーは、俺に問いかけた。 「『(サージェント・)警部(メイジャ)』の階級の方にお会いするのは、初めてですよ」 確かにそうかも知れない。恐らく、RCMP全体で十人もいないだろう。 別に特に偉い訳じゃない。単にイレギュラーなポジションで、めずらしいだけだ。言うまでもないことだが、序列は警部(インスペクター)の下になる。 「階級章の形は思い浮かぶか?」 冗談めかして警官二人に尋ねる。 ガードナーは肩をすくめてみせたが、ジャックは直立不動のままだった。 ヤツはオフィスに戻り次第、大急ぎでハンドブックを確認するに違いないだろうなと想像し、微笑みを禁じ得なかった。 何事も見逃さないニーナは「何を笑っているの?」とでも言いたげな顔をして、俺を見上げている。 「任務中に邪魔をした」 俺はジャックに右手を差し出し、握った手の上に左手を軽く添えながら言った。 「立派にご活躍で何よりだ、ミシェル上級巡査。では」 「ありがとうございます。ハンセン準警部。ごきげんよう、奥様(マァム)」 ジャックはファーキャップに軽く手を添えながら会釈をし、俺たちがパスの階段を降りて行くまで見送っていた。 ウォークウェイに入ると、ムードたっぷりに、俺はニーナに顔を寄せる。 「さてと、ディナーはどうしようか? ニーナ。残念ながら『ル・トゥル・ノルマン』に予約がある訳じゃないんだが」 と、トロント一の超高級フレンチメゾンの名前を挙げてみると、ニーナが 「あら? 駄目じゃない!」と、ごくわざとらしく不服の声を上げる。 「それでは、今宵は何をお召し上がりになりますか? マァム」 ジャックに負けないほど丁寧に、俺は言い足す。 ニーナは思わず吹き出すと、灰色がかったすみれ色の瞳を輝かせて言った。 「ねえ、さっきのお巡りさん(マウンティ)、可愛かったわね?」 「ああ、ガードナー巡査部長?」 ニーナがジャックを指していることは判ってはいたが、俺はわざと大真面目に請合った。 「違うわよ。あんなイベリコ豚の方な訳ないでしょう!」 ……イベリコ豚。  基本的には同意できる発言だが、なかなか手厳しい。 「あの、緑の瞳の子のほうよ。ええと、ジャック=バティストだったかしら」 「ほう? 『マァム』は、あのコーポラルがお気に召されましたか?」 ニーナのヒップを抱え上げるようにして自分に引き寄せ、彼女の耳元でこう囁いた。 「そうね、悪くなかったわ」 ニーナは、ますます気取った口調で返してきた。 「なるほど。ベッドを共にしても良いと思うくらいに?」 ニーナは、人差し指を立ててゆっくりと自分の口元に持って行き、勿体をつけながらもこう答えた。 「それも悪くない考えね」 「じゃあ、ヤツを今晩、家に呼びつけようか」 「そんなこと、出来るの」 言ってニーナは、小さく噴き出す。 「出来るさ」 俺は、1+1が2になるのと同じ程自明なこと、とでもいうような口調で答えた。 「どうやって?」と訊ね返すニーナは、どうやらまんざらでもなさそうだ。 「『準警部(サージェント・メイジャ)』に、『警部補(スタッフ・サージェント)』と呼びかけた罰だ」 俺が答えると、ニーナは堪えきれずに爆笑する。 そして、ひとしきり笑い終わった後、小指で目の縁の涙を拭っているニーナに、俺はこう付け足した。 「来る時には必ず制服を着用するよう、ジャック=バティストにはきつく言っておこう」 妻へのウィークエンド・サービスの盛大な締めくくりとして、その夜は『ジェイミー・ケネディー』で食事をする事にした。 『ル・トゥル・ノルマン』には遠く及ばないものの、それなりに気取った店で、銀行員連中がたむろしているいけ好かないワインバーだ。 食べたのだか食べていないのだか判らないような分量の、しかも皿に載っているのは、ほとんど飾りつけの野菜といった類いの料理を出す。 無論、俺の趣味の店ではない、ニーナの好みだ。
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