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翌朝目を覚ますと、もう午前十時を回っていた。
ジャックは隣で横向きになり、両膝を曲げて眠っている。
俺は、できる限り静かにベッドを降りた。
バスルームに入り、熱めのシャワーを浴びる。
まだ少しふらつくが、「身体が自分のものである」という感覚が、やっと戻ってきていた。
ボタンが途中までしか留まらないパジャマは着ないまま、制服のスラックスだけを穿き、タオルを肩から掛ける。
キッチンに入って、勝手にコーヒーを淹れた。
ジャックが「貰ってきた」という木製のスツールは、無骨で、台座の部分に随分と目立つ傷があったが頑丈そうな作りだった。
そのスツールを、シンクの側において座る。
コーヒーマシンの手前に肘を乗せ、腕に頭を持たれかけさせながら、俺はコーヒーがサーバーに抽出されていくのを見つめていた。
コーヒーの香りが、部屋中に広がってきたところで、ジャックが起き出してくる。
「よく眠れた? スタン」
ジャックは、昨晩と同じTシャツにスウェットパンツのままだった。
俺は短く返事をして、ジャックの分のコーヒーを注ぎ、立ち上がらず腕だけを伸ばした。
近づいてカップを受け取ると、ジャックはもう一方の椅子に腰を下ろす。
「具合はどう?」
「……腹が減ったな」
俺は自分のカップにコーヒーを注ぎ足した。
「そっか。昨日のスープもあまり残っていないし……何か買ってくるよ」
そう言ってジャックは、カップをテーブルに置いて立ち上がる。
「その必要はない」と口を開きかけたところで、ジャックが俺に視線を向けた。
「僕もお腹空いてるんだ。何か食べたい物ある?」
任せる、と応じれば、ジャックは黙って頷いた。
そしてスウェットをジーンズに穿き替え、Tシャツの上にコートを羽織ると、出かけていった。
俺は、まだ少しぼんやりとした頭で、「昨日と同じシャツをまた着て帰るのは嫌だな」などというようなとりとめもない事を考えながら、コーヒーを飲み下す。
ほどなく、玄関で鍵の音がして、ジャックが部屋に入ってきた。
一瞬、外の空気が部屋の中をわたる。
「おまたせ。スタン」
ジャックは、上着を着たままキッチンへとやって来た。
俺は立ち上がり、ジャックの抱えている大きな紙袋を受け取った。
「随分、色々と買い込んだな」
紙袋をシンクの脇に置き、中を覗く。「ワインまである」
「前にスタンが寄ってきた、あのデリだよ。あんな店、アルコール売って大丈夫なのかな? 免許あるのかなぁ」
ジャックは上着を脱ぎ捨て、ソファーへ放りながら言った。
そして、棚から皿を取り出し、買ってきたハムや野菜の煮込みやサンドイッチを載せて、テーブルに並べ始める。
「じゃあ、食べよう」と。
そう言いながら、ジャックがサンドイッチに手を伸ばしたところで、俺は黙って、シンクの脇に出しっぱなしのワインボトルを指差した。
「あれ? いつかスタンが飲むかもって思って買ってきたんだけどさ……まさか」
ジャックはサンドイッチ手を口の手前で止めたまま、「今、飲むの?」と、呆れ気味にそう言い放つ。
だが、すぐに立ち上って、ボトルをテーブルへと運んできた。
「でも、冷えてないよ」
「グラスに氷を入れれば良い」
言って俺は、棚からグラスを取り出す。
ジャックは、栓を開けようとワインボトルを手に持ったが、そこで動きを止めてしまった。
「どうした?」
「……ワイン開ける道具。ここには無いんだ」
ジャックはわずかに頬を赤らめる。
以前に想像してみたとおりの展開だった。
「ベッドルームのガラクタの中には、何かないのか?」
俺は思わず、むせるような笑いを漏らす。
ジャックは、黙りこんでしまった。
俺はまた、リビングルームへと戻り、制服のジャケットからスイス・アーミーナイフを取り出した。
そして、ジャックからボトルを受け取る。
ナイフで封を取り去り、手早くワインのコルクを抜いた。
「ナパの白か。割と有名なワイナリーだな」
スクリューからコルクを取り、口元に当て、軽く香りを嗅ぐ。
「便利ですね、これ」
感心しきりに呟いて、ジャックは、俺のアーミーナイフの刃を出したり入れたりしながら、しばらく玩んでいた。
「お前にやる」
「駄目です、そんな……っ」
ジャックは驚いて目を見開き、慌てて、ナイフを俺の方に押し戻した。
「ポケットにでも入れて持っていろ」
俺は冷蔵庫を開き、手にしたグラスいっぱいに氷を詰める。
「お前がリスの巣みたいに溜め込んでいる、どんなガラクタより多分、役に立つだろう」
リスの巣って……と、少し不満げに繰り返しながらも、ジャックはナイフを見つめていた。
そして、俺の方を見上げると誕生日の子供のような笑顔で礼を言う。
俺は取り出してきた氷をグラス二つに分け、そこにワインを注ぎ入れた。
「本当に、氷なんか入れるんですか?」
ジャックが驚いて声を上げる。
「言うほど悪い飲み方ではない。試してみろ。さて、喰おうか」
俺たちは、ポツリポツリと話をしながら食べ進む。
ちょっと前の映画に出ていた俳優の話とか、スター紙のコラムの感想とか。
まるで、話の合間にいかに冗談を盛り込むかがメインの学生の良くやる、他愛ない世間話のようだった。
ワインは高級品ではなかったが、「はずれ」ではなかった。
「お前が選んだのか?」と訊ねれば、ジャックは首を横に振る。
「食べ物を選んで、ワインラックを見てたら、いくつか薦められたんだよ。ほら、あの英語の不自由なすごい白髪のお爺さん。朝はいつもあの人が店を開けるからね。スタンも会ったんじゃない?」
「確かに。ラックは少し覗いただけだが、趣味は悪くなさそうだった」
「そうなんだ?」と応じ、ジャックは、
「ワインとかってさ、良く判らなくって……」と続けながらトマトと白チーズを口に運んだ。
「家族はワインを飲んだりしないのか。フランス系だろう」
ジャックは、フォークでハムをつついている手を止めた。
「確かに、子供の頃はケベック・シティに住んでたけど……施設にいたから」
微かに首を傾げた俺に、ジャックがこう続ける。
「両親は、僕が小さい頃亡くなったんだ。十四歳の時にフォスターペアレンツができて、トロントに移って来た」
――アカデミーの書類上分かる訓練生の経歴は、レジャイナにくる直前の最終学歴だけだ。
だから、ジャックのことは、トロント近郊の出身だと記憶していた。
俺は無言のまま、グラスのワインを飲み干した。
食事を終えて立ち上がると、もうほとんど正午に近かった。
「世話になった、後で何か礼をしなくては」
俺は制服のジャケットに腕を滑らせる。
「ベルトとホルスターはこっちに……」
ジャックが、キッチンの棚を開けた。
「弾倉。どうしようかと思ったんだけど……そのままにしてある」
ジャックは少し困ったように言った。
授業で銃火器の取扱いについて、アカデミーに俺から、さんざ脅しつけられたコトでも思い出したのか。
「ああ、それで良い」
棚からホルスターを取る。
拳銃を抜き出した。キャッチをリリースして、スライドを引いてバレルをチェックする。
再びマガジンを差し込んで、ホルスターに戻した。
バスルームの鏡でタイを締める。
ジャックはソファーの横の壁に寄りかかり、俺を見つめていた。
「そんなに制服が良いか?」
横目でジャックを眺めやってから、軽く肘を曲げてカフの位置を直す。
「俺はどちらかというと、服は着ていない方が好みだが」
「今は思う存分、スタンのこと眺められるからね。アカデミーではあんまり『教官』を見つめるわけにはいかなかったし」
「そうだったか? 結構、じっと見てたぞ、お前」
からかい半分に言って、俺はジャックの顎を軽く掴んだ。
「そんなことないよ。絶対」
ジャックがムキになって否定する。
短く笑い、俺はジャックの額にキスをした。
玄関へ歩いていく俺の背中に向かって、「ねぇ、スタン……」と。
思いついたようにして、ジャックが言う。
「あのデリのお爺さん、なんだかちょっと、アカデミーのトンプソン教官を思い出さない?」
その問いかけには応じぬまま、左手を軽く上げて見せ、そして俺は、ジャックの部屋を後にした。
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