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19 毎年、秋にやっているオタワの警察大学での講義。 その準備を急かすメールが、このところ頻繁に届くようになった。 結局、まとまった休みも取らないまま、夏は過ぎていった。 ニーナはカレッジの非常勤の仕事が五月雨式に入るようで、休暇の予定がまったく立たないことを嘆いていた。 だが、そう言いながららもニーナは、なんだかんだと仕事にかこつけて出歩くことが増えていたし、心ここにあらずといった様子の子とも多かった。 ニーナが「よその男に血道を上げる」こと自体は、どうということもない。 しかし、その相手が「マテバ・デ・カルロ」の秘書アーマンドであるという点には引っかかるものを感じずにはいられなかった。 なにやら「面倒事」にならなければよいのだが……と。 俺とジャックはといえば、セントクレア・ウェストのジャックのフラットでばかり会っていた。 「出歩くのが嫌」というわけではない。だがなんとなく、そうなっていた。 もちろん、どこかで警察関係の知り合いと出会うことを懸念しなかったといえば、噓になる。 その日も、ジャックの狭苦しいベッドに二人で横になりながら、俺はガラクタが詰め込まれた「リスの巣」のような棚を、見るともなしに眺めていた。 「スタンは夏、休暇を取らないの?」 ジャックが、突然ポツリと尋ねる。 眠っているとばかり思っていた。 「……まだ取ってないな。ニーナは毎年、休暇はいつにするとうるさいのだが。今年は自分の()()が忙しいらしい」 そんな風にフワリと応じてから、俺はジャックに、 「お前はどうなんだ?」と尋ね返す。 「そうだね、僕は特に。帰る家もないし」 そのまま黙って聴いていると、ジャックが続けた。 「あ、感謝祭やクリスマスは休みが取れれば、フォスターペアレンツのところに挨拶にいくよ、でも、大抵は家族がいる人のシフトを代わってあげちゃうかな」 ジャックは寝返りをうってこちらを向き、俺に尋ねる。 「『毎年』…って、去年までは、どこか旅行に行ったりしたの?」 「ああ、そうだな。二、三度ってところだが」 「どんなところに行ったの?」 ジャックはなおも「休暇」の話を続けたがった。 「忘れたな」 俺は指先で、ライターとリトルシガーのパックを手繰り寄せる。 「嘘ばっかり」 ジャックが俺からライターを奪った。 「嘘ではない。どこか暖かいところだ。大して面白くもなかったから、いちいち覚えていない」 俺はシガーを銜えたまま呟く。 そして話をそらそうと、 「で? お前はどこか……行ってみたいところでもあるのか?」と続けた。 「うーん。特には……」 ジャックはライターをシーツの上に置くと、真剣に考え込む。 俺はやっとシガーに火をつけることができた。 半分ほど吸い終わった頃、突然、ジャックが、 「そうだ。僕、フライ・フィッシングをやってみたいと思ってたんだ。前に映画で見て」と、声を上げる。 「……やったことないのか? 釣りを」 正直、驚いた。 こんな国(カナダ)に住んでいて、カヌーを漕ぐか釣りをする以外、他にやることもなかろうに?! 「ないよ、スタンはあるの?」 「昔な」 手を伸ばして、灰皿代わりの箱を引き寄せる。 「『リバー・ランズ・スルー・イット』。スタン、観た?」 「ああ。レッドフォードの若い頃に似てる俳優が出るっていうのが、当時の売り文句だったかな」 「そう、ブラッド・ピット。あの映画、すごく綺麗だったな」 「フライ・フィッシングなら、オンタリオ湖にでも行って、バスを釣ってくれば良いだろう?」 短くなったシガーを箱に入れるとフタを閉めて、サイドテーブルに押しやった。 「違うよ、そうじゃないんだ。ああいう『渓流』で釣ってみたいんだ」 ジャックは、ダダをこねるような口調になって言い返す。 「そんなものか?」 ジャックに曖昧に相槌を打った後、俺は、その映画の内容を思い出そうと試みてみる。そして、 「確かに、ブラッド・ピットはレッドフォードの若い頃に似てたな」と呟いた。 「ふうん、スタンって、ブラッド・ピットみたいなのがタイプ?」 ジャックは俺の肩に頭をのせながら、当てこするように言う。 「別に。レッドフォードも趣味じゃない」 そう即答すれば、ジャックは拍子抜けしたように俺から離れた。 シガーの残り香を感じながら、しばらく黙り込んだ後、俺は、 「……アルゴンキンあたりに行けばいい。車ですぐだ。三、四日もあれば十分だろう。オタワに講義に行く前までなら時間が取れる。紅葉はまだ見られないだろうがな」と呟く。 ジャックが俺を振り返って、小さく驚きの声を漏らした。 「なんだ、不満か? だがあまり遠くには行けないぞ。第一、バンフやBCなんかに行ったところで、どうせ釣れるのは、同じようなトラウトだ」 「……スタン、それって一緒に行ってくれるってこと?」 ジャックが身を乗り出す。 「俺が『好きこのんで』長靴をはいて釣竿振り回したりしたいような人間だと思うか? 仕方がないから付き合ってやるだけだ、ミスタ・ブラッド・ピット」 ジャックは、黙ったまま俺の顔を見つめていた。 「竿や道具なんかは、あっちでも借りられるだろう。ライセンスもすぐ買えるだろうし……泊まるところはどうするか。テントでも張るか? もう寒いかもな。まったく、お前と寝る時はいつも狭苦しい……」  いきなり、ジャックが身体ごと俺に飛びついてくる。 「何だ……ジャック!」 思わず身体をよじったが、ジャックはしっかりと俺を掴んで放そうとしなかった。 「ホント! ホントにホント? 嬉しいよ」 ジャックは足までバタつかせ始める。 「お前……いいかげんにしろ。埃が立つだろう。大げさなヤツだな、それより休みがいつ頃取れそうか、早めに調整しておけ」 「わかった、すぐやる!」 ジャックは俺を見上げて力強く頷いた。 その緑色の目には涙がいっぱいに溜まっている。 「泣くようなことか?」 溜息まじりに笑いながら、俺は掌でジャックの顔を擦ってやった。
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