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俺は手袋を取ってコートのボタン外し、携帯をブルーサージの内ポケットに入れた。
建物に入り、冷えた指を軽く擦り合わせながらホールを突っ切っていると、事務職員がすれ違いざまに「凍えちゃってるんですね」と声をかけてきた。
俺はかなり無愛想な口調で一言だけ返事をする。
そして、立ち止まることなく、彼女の横を歩き過ぎた。
左利きの俺にとって、マリッジリングなど実務的には邪魔以外の何者でもない。
アカデミーにいた頃は、ニーナの前でしか身に付けはしなかった。
しかし、こういう場所に移ってきて初めて、それによりあずかれる恩恵もあるのだと実感する。
「マリッジリングを付けた男」に気安く言い寄る女性は、そうでない場合と比べ、ぐっと減るということだ。
部屋に戻ると、俺は早速、巡査見習のデータチェック作業に戻る。
今日中に片付けてしまわねばならない。
指導担当警官から特に頼まれていた件以外にも、数人のデータに目が止まった。
早速、インタビューの日程をフィックスする作業に取り掛かる。
ここの職員用パーキングが空になってしまう前、つまりオフィスアワー内に、事務方への各種届出を完全に済ませておかねばならないからだ。
俺は、スケジュール帳を取り出した。
電子機器恐怖症でもなんでもないが、手帳に関してはオールドスタイルを貫いている。紙の一覧性を再現することは、デジタルデバイスでは難しい。
対象者のインタビューのほとんどは、トロントの三局かここで対応できそうだった。
だが一人、サンダーベイ支部に配置されているヤツがいて、こいつだけはどうしようもない。
ただ、不幸中の幸いとでも言うべきか、ここの指導担当警官にはすぐに連絡がつき、インタビューの日時を、金曜午後にフィックスすることができた。
他についても、メールや電話で調整をかけながら、タイムテーブルを設定していく。
明日火曜日の夕方からトロント北局で二日間、木曜日にここでインタビューをし、金曜日にサンダーベイへ出張する――というスケジュールのメドが経ったところで、時計は、もう十六時を回っていた。
慌てて、明日午前の休暇届と出張旅費申請を添付した出勤スケジュールをテンプレートにぶち込み、担当事務員にメールした。
こういう雑事をすべて片付けてくれるセクレタリーが付くまで、俺はあと何年位、RCMPで働く必要があるのだろう?
本部広報の「準警部」と「同格」の扱いと言うことで、ここロンドンの管区総本部は、一応、俺に個室を与えていた。
勿論、それは形式的なものに過ぎない。
派手な仕事のオタワのプレスとは違って、直属の部下が配置されているわけでもなく、誰かが代わりに雑事をこなしてくれるわけでもなかった。
とりあえず、カナダでは土地だけはたっぷりとあり、室には不自由していないというだけのこと。
自室を出て、俺は大部屋の事務員に声をかけた。
急ぎの書類をメールした旨を「念押し」するために。
ここへ配属されてもう数ヶ月が経つが、俺は担当者がエイミーだったかエミリーだったか、未だに覚えられないでいる。
彼女の仕事ぶりに特筆すべき問題点といえるものはなく、これまでのところ「ごくまっとう」と言いうる範疇のものではあった。
ただし、重要書類をメールした場合には、必ず彼女に「物理的」にリマインドしておくことが業務遂行上、穏当であるという点を除けば――だが。
俺はそのまま自分の部屋とは反対側の地下にある、ゲープの所に向かった。
そこまで行くのに、身長百九十センチメートルはある俺の歩幅で歩いても、五分はかかる。
この建物で、部屋に不足があるわけがない。
ゲープは随分な歳だが、依然として平警官の男だ。
少なくともここに管区総本部ができた時には、すでにここで装備管理の業務を担当していたらしい。
おそらく騎馬警官の頭数が、不足した時期に大量採用された最後の世代ではないかと踏んでいる。
俺は今の役職でも、サイドアームの携行を認められていた。
これは比較的めずらしい事だ。
実働部隊ではない今の業務では、携帯の必要性を認められないのが通常だからだ。
ただ、この件に関しては、レジャイナで認められていたことを盾に、俺が半ば強引にねじ込んだ結果というのが、実際のところだが。
サイドアームは自室のロッカーに保管することが認められており、通常、わざわざゲープのいる倉庫まで足を運ぶ必要はない。
ただ、俺は自宅から直接他支部に出向く事も多く、装備を自宅に持ち帰ることもある。
その場合には法規上、管理責任者であるゲープに装備を提示した上で、彼の管理権限下にあるデータベース上の処理を要求されるのだ。
具体的には、データベースに俺の暗証番号を入力し、ゲープの認証を得るだけに過ぎないのだが。
事務職がメインで警官数自体、さほどは多いといえない管区総本部の武器庫は、管理物品の質、量ともに大したものではない。
とはいえ、ここには「幹部警官」が正装時に使うきらびやかな武具類が保管されており、これらに関しては、「特筆に値する」と言っても差し支えないだろう。
ゲープは、さながら古びたコンクリートの城に潜む宝物番のようなものと言えた。
IDについたチップを読ませて武器庫のドアロックを解除し、武器庫の中に入った。
いつもと変わらず、ゲープは、部屋の備品のごとくカウンターの奥に座っている。
そして、俺の顔を見るなり条件反射のように、装備持出しの認証画面を立ち上げているようだった。
ゲープが俺を見上げ、画面の確認を促した。
お定まりの画面とパスワードの入力を経て、ゲープの認証を得たところで、無事持出の登録が完了した。
俺の他に、こんな処理を申し込む警官は、まずいないだろう。
そもそもここに出入りする人間なんて、滅多にないはずなのだ。
しかし、俺はゲープと挨拶と要件以外の言葉を、ただの一度も交わした事がなかった。
そして、それは今日も同じだった。
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