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翌朝、ベッドに横たわり、まだ微睡んでいるニーナの首筋にキスをして「行ってくる」と声を掛けた。
ニーナは手を額にかざし、朝日を遮りながらこちらに寝返りを打つと、ドレスシャツのカフを留めている俺を眺めて言う。
「あら。今日は、ロンドンのオフィスへ行くんじゃないのね?」
俺は一瞬だけニーナに視線をやった。
だが、すぐにもう一方のカフに視線を移すと、
「今日、明日はダウンタウンに直行、直帰だ。北局でヒアリングがある。場合によって早めに戻れるかもしれないが……」と応じた。
「今日は、夕食に何か美味しい物でも作っていようかと思っていたんだけど」
ニーナは一応、すまなさそうに言ったが、それが形だけであることは、互いに百も承知だ。
「状況が判り次第、連絡を入れる」
ジャケットに袖を通してから、ニーナに近づき、再びキスをした。
ニーナは寝そべったまま腕を伸ばすと、俺のジャケットのボタンを下から順に、ゆっくりと留めていく。
すべて留め終わると、片腕をベッドに投げ出し、もう片方の手の甲を額に当てながら、わざと不躾な視線をよこし、俺のつま先から頭の天辺までを眺め回した。
「制服、着てる時のあなたって、最高にクールよ。毎日、家から着ていけばいいのに」
俺は無言でクローゼットを開き、コートと手袋を取り出した。
「スタンリー、クリーニングしたシャツの場所。分った?」
返事の代わりに、俺はニーナに頷いて見せる。
バッジ、シガーのパック、ライター等をしかるべきポケットに入れていると、再び微睡みかけていたニーナが身体を起こし、鋭い口調で言った。
「そうだわ、あなた。ゆうべ家の中で、タバコ吸ったでしょ?」
ニーナの問いには答えないまま、俺は制帽を手に取る。
「帰ってきた時、玄関を開けたらすぐに判ったわ」
ニーナは、俺に禁煙を迫りこそしなかったが、家で吸う時はテラスだけにするよう、何度も小言を言われていた。
「一応、換気扇の側で吸ったが」
と言っては見たものの、これがニーナの怒りを和らげるのに、なんら役立たないことは判りきっていた。
「こんな冬場に、夜、テラスに出るなんて、煙まで凍る」
俺はなるべく軽口に聴こえるよう、努力して付け足した。
「タバコは身体に良くないわ」
ニーナの声音が、突然いたわる様な色になる。
「そんなには吸ってない」
「あなたの身体が心配なのよ」
タバコやシガーが、気に入らないのなら気に入らないで構わない。
俺の健康なんか、本当はさほど問題にしていないことなど判っている。シガーが嫌なら、単純にそう言えばいい。
身体がどうこう等という、恩着せがましい理由をつけられるのは不愉快だった。
俺の沈黙に不機嫌の色を感じたのか、ニーナがさらに声を和らげる。
「スタンリー。朝食は?」
「適当に済ませた、心配しなくて良いから、もう少し寝ておいで」
俺も出来る限り優しい口調で応答すると、そのままベッドルームを後にした。
ガソリンをフルに補充しておこうと、通りがかりのスタンドに立ち寄る。
時刻は午前九時四十五分。
ふと思いついてカーナビゲーションに、ジャックから訊いた住所を入力してみた。
ここからは、ほんの十五分で着くことが判る。
さすがに十時では、訪問には早すぎるだろうか。
まだ、眠っているかもしれない。
だが、そのきっかり二十分後には、俺はすでに目的地のセントクレア・ウェスト駅周辺に着いてしまっていた。ある意味、カーナビゲーションの進歩には驚かされるばかりだ。
この辺りを通りがかるのは久しぶりだ。
やけにイタリア風の店が目につくようになった気がする。
時間を潰しがてら周囲を走らせていると、デリカテッセンが一軒、開いているのに目が留まった。
ニーナに朝飯を済ませたとは言ったものの、実際は「いっそ全部喰っちまってくれていれば良かったのに」と思うほど、ほんの僅かばかり箱の底に残されていたシリアルを口に流し入れてきただけだった。
ウインドーに美味そうなパニーノを並べられてゆくのを見た俺は、たまらなく空腹を覚える。
そういえば、昨晩もまともな食事をしていなかった。
俺はその店の少し先に駐車し、コートだけを抱えて車を降りる。
制服が目立たないよう、急いでコートを着込み、歩きながらボタンを全部留めた。
デリでは、見事なまでの白髪の爺さんが店番をしていた。
低く挨拶をして、俺はショーケースに並べてあるパニーノを指差す。爺さんは、力強く頷き、何事かを口にした。どうやら、英語はあまり達者ではないようだ。
身振りで二種類のサンドイッチをひとつずつ選び、勘定を済ませる。
いくらコートを着込んでいても、この格好は、やはり少々目立ったようだった。
「グラーツィエ、カラビニエーリ。グラーツィエ」
俺の去り際に、老人が小声ながらもこう言ったのが、はっきりと分かったからだ。
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