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不死犬ハナ
いつの日だったかは忘れたが、あの日、我が家に二代目の犬がやってきた。『ハナ』と名付けた日のことを良く覚えている。
ハナは、柴犬であった。そう、ただの柴犬であったはずなのである。ごく普通で、ありふれた柴犬の一歳。一歳らしく、はしゃぎ回って家を駆け巡るのが日常であった。
ハナは、私の宝物だった。ずっと、ハナと一緒だと思っていた。そう、永遠に……。——みんな『永遠』なんて言葉、きっと意味も良く分からずに濫用しているのだ。
さあ、ハナが衰弱する。まさか、ハナが死んでしまうのではないだろうかと心配する。学校行事など身が入らぬ。食事も喉を通らぬ。母はしきりに「もしものことがあっても……」と煩い。私はそんなのが嫌で、一度ハナを連れて、真夜中の街へと飛び出していった。
街とは言っても、私の住んでいたのは随分田舎だ。近くを鉄道が走っているが、辺りには一面田園風景が広がっている。あちこちから、虫の鳴き声が聞こえる。私に抱き抱えられたハナは、虚ろな目をしていた。
「ハナ、嫌。死んじゃ嫌」と言って、私は目を潤ませた。溢れ出す涙を、拭うことはできなかった。私はハナを決して離さず、いつも散歩した道を辿った。
「ハナは良く、ここでうんこしたよね」
「ハナはいっつもこの脇道に逸れたがった。良い匂いがしたんだな……」
「電車が通ると走り出してさ、私もうヘトヘトになっちゃって」
そんな思い出話を聞かせるけれど、まさかもう既に冷たくなってしまったのかと思うほど、ハナは動じなかった。随分、眠たそうにしていた。私は、一々ハナの温もりを確かめるように、強く抱いた。指で、ふさふさの毛を掻いた。
思い出の場所を一周して家に戻ってくると、扉の前で母が仁王立ちしていた。次には怒り出すかと身構えたが、母はため息ついて「気は済んだ?」などと言った。
「ハナちゃん、どうだった?」
そう言って母はハナを覗き込んで、指先で額の辺りを撫でた。ハナは、やはり眠たそうにしていた。
母はこの時、ハナはこの一夜のうちに息を引き取ると、そう確信したそうである。けれども、人のそういった直感の、いかに当てにならないかがこの例からも良く分かる。——ハナは翌日日が昇ると、すっかり快復していた。
「ワン!」と吠える声が、朝一番に響いた。
「ハナ?」
私はダダダダと階段を駆け下りていって、最後はほとんど転ぶようにして一回転、着地すると玄関にいるハナを抱きしめた。ハナは忙しなく、ハッハッハッと鼻息を荒くしていた。ハナが十二、三の年の頃であったと、良く記憶している。
さて、ここからいよいよ不可解な話になってくる。私は、それ以来いつでもハナの死を覚悟するようになった。いつコロリと事切れるとも知れない。犬の寿命って一体何年くらいなのだろう、と調べてみたりもした。どうして生き物はいずれ死ぬのだろうと不条理に思った。どうしてわざわざ生かされて、それから死ななければならないのだろう。私はそう思う度、ハナのことを慈しむようにして見た。ハナは、きっと私より先に死ぬのだ。そういうことが、判然と理解できた。
——ところが、きっと私の方がハナより先に死ぬのである。
ハナが倒れた、その知らせを受けて、私は大学の講義を放って一目散に帰宅した。ハナは、檻の中で苦しそうに唸っていた。私は、ハナの顔を優しく両手で包み込んだ。ああ、ハナ。どうしてあなたがこう、苦しまなくてはならないの? どうして生き物は死ぬ時こう、苦しむのだろう。何かの罰なのだろうか。出会いやら輝かしい日々やら、そんなのがいくらあっても、最後には別れが全部を呑み込んでいく。私は、きっとハナのことを思い出す度辛くなる。ハナ——ハナは、十分に生きてくれた。死ぬ時くらい、いっそ楽に——そんなことまで考えたのだ。私はハナが死ぬものだと、当然のように考え、決めつけていた。
ところがハナは、やはり翌日になるとピンピンしていた。さあ、二十まで生きようという心持ちらしかった。珍しく父が興奮していた。こいつはとんでもないや、不死身の犬だ、不死犬ハナだ。と言って讃えた。無論、私もこのことを喜んだ。ハナは本当に不死身なんじゃあないかと考えた。生き物は皆いずれ死ぬけれど、ハナだけは死なない。ハナだけとは、死ぬまでずうっと、一緒である。私はハナに抱きついた。別れが無いのなら、依存したって構わない。ハナと、ハナの為に生きよう、そう考えた。
私はその後、恋人と同棲することになった。ハナも、一緒であった。ハナは不死であったが、不老でもあった。見た目は、中年の犬と永遠に変わらなかった。
彼は、通常にハナを可愛がった。特段詮索することもなく、暫くは過ごしていたけれど、途端に「いつから飼ってるの?」と彼は何の気無しに問うた。私は「小さい時から」と答えた。
「へえ、それじゃあ、結構な歳なんだね」と彼は言った。
どうして私は、こんな曖昧な答えをしたのだろう。ズバリと年齢を言ってやれば良かったのに。
家族などは、とうとうこんな連絡をよこした。
「ハナは、死んだかい?」
私は堪忍袋の緒が切れて、もう金輪際家族とは連絡を取らないことにした。
それから、事件が起きる。ハナが、見当たらなくなったのである。そして、何故だか彼が神妙にして座っている。
「ハナは?」と問うた。
「あのね、」
彼は、どうも不思議でしようがないというように話し始めた。
「ハナはどこか——おかしいと思うんだ。ハナは、あれは、犬じゃないよ。犬じゃない。きっともっと他の……別の何かだよ。どうしてって……だってあれじゃあ、まるで不老不死じゃないか。ハナは多分、何か……妖怪か何かなんだよ。ゴメン、言い過ぎたね。神様とも知れない。どちらにしたって……気味が悪いんだ。俺はハナは——ハナはここに置いておくべきじゃ、無いと思う」
私はこみあげる怒りを押し殺しながら、問い詰めるべきことを問い詰めようとした。
「まさか、殺したの?」
「いや……そんな残酷なことはできないし、いや、そうしようと思っても、きっと俺なんかには手に負えない生き物だよ。生き物かどうかすら、怪しいんだ。——捨ててきた、そうするしかなかった」
「どこに?」と私は冷たく、鋭利な刃物で突き刺すように問うた。
「教えない……教えたくない。教えたとて、もうとっくに、そこにはいないさ。もう帰ってこない。俺は……そう信じてる」
私は一目散に飛び出した。人目も構わず「ハナ、ハナ!」と叫び探し回った。私は、ハナが初めに死にかけた夜を思い出した。きっと、あの時、私の切な願いが、天に届いたのだ。それでハナは不老不死となったのだ。そんなハナが、私を置いて離れていくはずが無い。生涯を共にすると信じたのだ。
「ハナ、ハナ!」
——どれだけの時間、かかったか知れない。日はとっぷりと暮れ、そしてあっという間に明けようとしていた。
ハナは憔悴し切っているのに違いない。そんなハナを放っておくことなど到底できない。無論、日常というものはこんな日にも構わず続いていく。が、そんなことはどうだって良かった。そんなのはかなぐり捨ててでも、ハナだけはまもらなければならなかった。
私はとうとう、田んぼ跡のすぐ側の溝に縮こまって眠る、ハナを見つけたのだった。ハナを抱き上げて、ぎゅっと胸に押しつけた。するとハナはくうんと鼻を鳴らして目を覚まし、私を見上げた。とても二十を超えた犬には、見えなかった。彼は妖怪だと言ったが、私にはハナが天使に見えた。——ハナは、私だけのもの。私だけの、絶対的なもの。
私は急いで彼と別れた。ハナさえいれば、それで十分と気づけたのである。
——しかし、しかし、ねえ。
私は膝の上のハナを、頭から尻尾にかけて、ゆっくりと撫でながら、長い回想を終えた。
「お前はいつまで経っても死なないねえ」
私はもはや白髪となって、揺れる椅子に腰掛けながら、そうやってハナを愛でるのであった。
「どうかしてるよ、気が狂ってる」
男は事あるごとに、妻に、息子に、同僚に、同窓に、そう聞かせた。
「狂ってるよ。まさか、夜通し街を探し回るなんて」
男はその話をする時、常に相手からの反論を許さなかった。
「おかしな妖怪に惑わされてしまったんだ……本当に気の毒だよ。不死というのも、考えものだ。だから思うんだ。死ねる、終わりがあるというのは、この上ない幸福なんじゃないかって。死ぬと悲しいさ。けど、いざ死ななかったら、どうだろう。死ぬことを前提に、皆言うんだと思うよ。『いつまでも生きていて』だなんて……」
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