六、ここにいたい

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記事によれば、紅月はかつて家族をひどく憎んでおり、その恨みから一家の殺害を(はか)ったらしい。 莫大(ばくだい)な遺産から金を払って警察を黙らせた紅月は外つ国へと逃亡。 それから十年。 彼は何食わぬ顔で帰国し、画家として大成したが、その血塗られた過去を知る者はほとんどいないと―― 紅月は己の過去を語ろうとはしない。 けれど記事の内容が事実無根で、悪意ある嘘であることは梔子にもわかった。 それは、こんな荒唐無稽(こうとうむけい)な醜聞が出回るほどに、紅月が評判を落としていたということ。 そしてそれが、すべて梔子のせいだということだ。 他ならぬ梔子が、身の程をわきまえず、紅月のそばに居続けたせいで―― 息ができない。 全身をがたがたと震わせ、梔子は正気を失いかけていた。 「あ……あ、あぁ……ぁ……っ」 「あはは、あはははは、あっはははははは!」 部屋中に鞠花の哄笑(こうしょう)が高らかに響き渡った。 「これでもうわかったでしょ!? ここにいても、お前は篁さまの厄介者にしかなれないの! それなのに、まさかお前、妻としてあの方のお役に立てるとでも思っていたの? あの方の最愛になって、いつまでも幸せに暮らせるとでも? ああ、おかしい! そんな馬鹿げたこと、あるわけないのに。傑作だわ!」 「…………」 もう、声を出すことすらできなかった。 (私は……化け物。紅月さまを……不幸にする……) 瞳から急速に光を失いつつある梔子に、しかし鞠花は容赦などしなかった。 追い打ちをかけるように、顔を覗き込んできて言い放つ。 「ねえ、お前。何をぼうっとしているの? 私に何か言うことは?」 「…………」 気づけば、身体が勝手に動いていた。 それは、もう何年も虐げられ続け、心をずたずたに傷つけられるうちに、心身に刻み込まれた動作。 梔子は鞠花の足元に這いつくばり、額をこすりつけて頭を下げた。 「……申し訳、ございま――」 けれど梔子の声は、鞠花の金切り声によって容赦なく遮られる。 無理やり胸ぐらを掴み上げられたかと思うと、鞠花が手を振り上げるのが見えた。 「謝ればすむと思っているんじゃないわよ、この口無し!」 「…………っ……!」 ぱんっ、と。 乾いた音がした。 頬に火のついたような痛みが走る。 その瞬間。 (あ……) 虚ろになりかけていた梔子の瞳に、うっすらと光が灯りかける。 ……ああ、そうだ。 ほんの少し前なら、こんなものは大したことのない痛みだった。 兼時に、弥生子に、鞠花に、他の使用人達に、何度も何度も、日常的に打ち据えられていたのだから。 なのに、今。 (……いた、い) 打たれた頬は熱を持ち、じんじんと(うず)くように痛む。 痛い。 痛い。 痛くて痛くて、たまらなかった。 目の縁に、じわりと熱い涙が滲んだ。 「……、……っ……」 もう梔子は、八條家にいた頃の、誰かからの優しさやいたわりを知らない梔子ではなかった。 いつの間にか梔子は、愛され、大切にされることに慣れきっていたのだ。 そのことに、この上もないほどに気づかされた。 やがて鞠花は、頰を押さえてうなだれる梔子に、吐き捨てるように命じてくる。 「お前、自分のすべきことはわかっているわよね。これ以上ご迷惑をおかけして篁さまやうちの名を(おとし)める前に、あの方には離縁を申し出なさい」
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