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特別な1日
古利山富久子は、薄闇の中、目を覚ました。布団の中から首を捻って見た目覚ましの針は、午前5時55分。うーん、と手足を伸ばして起き上がり、すぐ側のカーテンを開ける。前日までの雨が嘘のように、爽やかな秋晴れの朝だ。重く湿潤な空気は軽やかに乾き、幾分の冷えが季節の進行を告げている。
「おじいさん、起きてください」
日焼けした畳の上に、並べて敷いた布団が二組。隣の布団で静かな寝息を立てている伴侶をシワだらけの手でユサユサと揺する。このところ、寝起きが悪い。いや、起きてもぼんやりしていることが増えた。若い頃の夫は働き者で、毎朝4時には家を出た。そのために目覚まし時計のアラームを仕掛けていたものの、ベル音が鳴る5分前には起きて、アラームを解除していた。だから、富久子はついぞベル音を耳にすることはなかった。
彼が定年を迎え、早起きの必要がなくなると、夫の起床時間は少しずつ遅くなった。そして10年ほど前からは、富久子に起こされることが日常になった。
「おじいさん」
「……ん、あ、ああ……おはようさん」
「はい、おはようございます」
瞳の焦点が合ったのを確認すると、妻は布団から抜け出して、寝間着から着替え始めた。
「今日は……そうか、今日か」
「ええ、そうですよ、おじいさん」
布団の上に起き上がった夫は、壁に掛かったカレンダーを見詰めると、呆気に取られたように呟いた。今日の日付には、彼自身が書き込んだ赤い丸印が付いている。
「ばあさん、いや……富久子さん」
「なんですか、改まって」
「今日まで、ありがとう」
布団の横に正座すると、夫は、浅黒く筋張った両手を畳に乗せて、頭を垂れた。確り、深々と。藤色の着物の袷を整えながら、妻は数歩後退り、そこで夫に倣って正座した。
「こちらこそ……長い間、ありがとうございました」
妻も改まって頭を下げる。全く、この人ったら。今日は特別な1日だからこそ、特別なことはするまいと思っていたのに。
庭先から、雀やヒタキの声が聞こえてきた。老夫婦はどちらともなく頭を上げ、見慣れた顔をしばし見詰めて微笑み合った。
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