ここに、私の命がある

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ここに、私の命がある

「奥さま、もう許して差し上げては?」  シャルフィが署名だけした手紙を受け取り、エネがふとそう言った。  おそらく今朝からシャルフィとリウトが目も合わさず口も利かないのを、心配しているのだろう。  ずっと主家の令嬢に尽くして来た騎士に、屋敷の者たちも結局は甘いのだ。  あの捕獲劇の後、心を決めたと宣言したリウトはシャルフィへの愛着を隠さなくなり、なぜか一層神がかった有能さを発揮した。いつの間にと思うほど大量の決裁や商談をこなし、有能な人材を採用し、着々と子爵としての立場を固めつつ、シャルフィの体調に無理のない運動や、滋養のある食事を提案したり、それに付き合ったりと、それはもう甲斐甲斐しく。  おかげで、シャルフィは自分の体との付き合いに専念できた。  子が育つ速さは想像を超えて、体は大きく変化していき、ただ節度ある生活をしているだけでは油断ができない。血が不足気味になったときはアナ医師も含めて大変焦ったし、事なきを得た後の安定期でも、体の不快と、いつまでも気を抜けない日々に、苛々とすることが多かった。そんなシャルフィを宥めるリウトの根気強さよ。  約束通り、シャルフィはくじけそうにはなっても諦めなかった。子の成長と競うつもりで、食い下がった。  たまに、爆発しそうになったときだけ、好きな柑橘のケーキと乳で薄めた紅茶をカップに少しだけ、リウトにもたれかかって大事に食べた。  朝の斜めの日が斜めに差すのをぼんやり見るのも好きになった。庭の花壇の花より、庭木の緑も綺麗だと思った。夏のにおいは湖の上の風に似ていると気づいたし、馬を遠目に見たときの艶やかな毛並みにも目を細めた。いつも、リウトと手を繋いでいた。  そして、お腹はふっくらと前に張り出し、着実に重みを増した。  愛おしい重みだった。  あれほど苦しんだお産を含めて、懐かしく思い出す。 「坊ちゃんは、もう夜もほとんど起きないそうではないですか」  エネの指摘に、シャルフィは唇を尖らせた。  この一年でエネも伴侶を得て、言うことが露骨になってきている。 「それはそうよ。でも別にそういうことで喧嘩しているわけではないし、そもそも、喧嘩なんてしてないわ」 「そうですか? まあ奥様はあまり明け透けなのはお好みではないようですから。でも誤解し合うことはないようになさってくださいね」  エネが言うのは、捕獲した直後の話し合いのことだ。 「今でも、私はモヤモヤします。肝心の、どうして奥様のご懐妊を避けようとなさっていたのかの理由も聞かず、ご懐妊に対するお気持ちも、認めるとか応援するとかいった決意みたいなものも聞かずに終わってしまって! 本当にあれでよかったのかと、私、夜魘されるほどでした」  不満そうに顔を顰めるエネも、今妊娠中だ。余計に気に障るのかもしれない。  そうね、とシャルフィは首を傾げて思案した。  当時は、心のままにしたことだ。振り返ったこともあまりなかった。 「たぶん、私が何か言ったら、リウトは私に合わせてくれるとわかったからかしら。無理にそうさせても、私はリウトに絶対の安心を返してあげることはできないのだもの。  私子供の頃は、ずっといつ死ぬのかわかればいいのに、って思ってた。だって、ほんとにいつも苦しくて、もうだめだって思うのにまた生きのびて。最初から、生き延びるってわかってたらあんなに怖い気持ちにならずに済むし、やりたいことを中途半端に我慢せずにすむのに、って。でも、当然分からないの。誰にもね。……だから、リウトがもし私が出産をきっかけに死ぬかもしれないと思って怖がっていると分かった時、そんなの私がもう何年も悩んできたことで、悩んでも仕方ないことなのにって思った。嫌な人間よね、私。リウトに申し訳なかったわ」 「奥様……」 「でも、リウトが怖がって苦しむのはとても嫌だったし、お腹の子が苦しむのも嫌だったのも本当よ。気をつけることで体が少しだけ楽になるってこともわかって来ていたから、なるべく生きれるよう努力するって約束はした。――でもね、約束も意気込みも、努力だって、無駄になることはある。私も、私と一緒にいたリウトも、よく知ってる。私がいくら努力しても、人より一生は短いと思うし。  だからリウトには、見てもらうしかないと思ったの。ずっとずっと、私がずっと努力するのを見てもらうしかない。もちろん、隣で助けてもらってね。それくらいは私、ちゃんとずるく期待してたわ。それでね、私ができるところまで生きて、大事に生きて、そしてどうしようもない最後になって振り返ったときに、リウトによかったって思ってもらえばいいかって」  エネは、言葉もなく泣いていた。  妊婦を泣かしてしまってはよくない。  だから。  もしその時に、私の努力が足りないとか、やっぱり許さなければよかったとか、どうしても置いて行かれるのが寂しくて仕方なかったら。リウトは私が行くところに、その時一緒に来たらいいわ。  そう思ったことは、胸にしまった。  いつか、もっと先のいつかに、リウトに話すかもしれないし話さないかもしれないこと。 「大丈夫、その生活を続けてるおかげで、本当にずいぶん健康になったの、エネも知ってるじゃない」  シャルフィはエネの背を優しく撫でた。昔、撫でてもらった時と同じように。 「おぐざま、ぞれなら、やっばりはやぐながなおりしてぐだざい」 「ふふ、何言ってるのかわらかないわよ、エネ。ほら、お腹の子がびっくりしちゃう」  あれこれ話題を振って泣き止ませ、そして誤魔化した。エネも結構鋭いなと思いつつ。
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