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だって、絶え間ないシャルフィの声の合間に聞こえるリウトの息遣いは、ひどく静かだ。ぴたりと寄り添う体は温かいけれど、穏やかな風と日差しのような気配しかない。
汗の匂いも唾液の匂いもしない。
リウトの匂いは少しもしない。
シャルフィを包み溶かし甘やかす湖は、シャルフィ自身が作り出した、幻の恋の香りしかしない。
そこに、本当のリウトはいない。
あるのは、ただ、月の暗い暗い影。その影は、リウトとは違う。甘くシャルフィを誘うにおいを――。
「やめて!」
シャルフィは叫んだ。
叫んでから自分で驚いたほどの、反射的な叫びだった。
「シャルフィ?」
動きを止めて覗き込んできた夫がさっと顔を青くしたのも、拭い損ねた汗がこめかみから落ちたのも、シャルフィは見ていなかった。
それどころではない。
「どうし……シャルフィ?」
シャルフィは足の間の大きな体を蹴り退けようとしたが、到底敵わない。戸惑いの表情のリウトに押さえ込まれて。
間に合わない。
そのまま、見られながら、盛大に吐いた。
子爵家かかりつけの医師が呼ばれて、さまざまに聴取された。
これまたいつまでもシャルフィを子供扱いをする老医師は、食べ過ぎか、身体に合わないものを食べたかでしょう、と髭の奥でモゴモゴと診断すると、体を冷やさぬよう、お腹を大事にするよう、と小言を言って帰って行った。
シャルフィは、急遽整えられた別室の寝台に押し込まれていた。明日丸一日は寝台で過ごすようにと言われている。
体調が特に悪いわけではない。あの一瞬だけ、鋭い吐き気に抗えなかったが、過ぎてしまえばかえってすっきりした気がするほどだ。
今残るのは、漱いでも取れない吐瀉物の不快な後味と、全裸の夫に吐瀉物まみれの自分の世話をさせた衝撃と後悔だった。
リウトは「横を向け」と鋭く命じながらシャルフィの汚物まみれの顔に躊躇なく触れて固定して、さらに楽に吐けるよう、体を起こしてくれた。
吐き終えたあとは寝台のシーツで顔も首も、ついでにそれまで繋がっていたところも、全身まるっと上手に拭ってくれた。そうしてシャルフィが最低限の尊厳を取り繕ったところで、侍女を呼んでくれたのだ。
侍女を呼ぶ直前、シャルフィの意識があることを確認してほっと息をつくまで、リウトは英雄広場の彫刻よろしく、まる裸だった。
その見事な体躯をついつい思い出してしまうのも、なんとなくシャルフィの自己嫌悪を加速させる。
忠実な騎士であろうが、夫の演技としていようが、確かにリウトは献身と愛を捧げてくれているではないか、と。
「もっと脇目もふらず恋してほしいなんて、贅沢を通り越して傲慢だったわ」
そう呟いたものの、あの瞬間の鋭い吐き気をふと思い返してしまうと、もう戻れない気がする。
シャルフィは、胸を押さえた。
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