愛した日々、愛した人へ。

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愛した日々、愛した人へ。

 拝啓、多大なる御迷惑をおかけした両親へ。そして、今生きる為に多大な尽力をかけてくださっている皆様へ。  どんだけの時間一緒に過ごしたでしょうか。31536000秒を22回繰り返して、私は貴方の巣から飛び立ちました。家から逃げ出した3年間はありましたが、概ね、貴方がたの顔を見続けて生きてきました。  しかしながら、私にとって、反抗期というものは、今なのかと思っています。  私の記憶上、もう、母も父も妹も、顔や声を忘れております。その家に住んでいたという歴史はあるものの、その全ての思い出は無いものとなっています。  貴方に話しましたよね。 『短期記憶障害になってしまった』  必要なことはメモらなければ忘れます。言語化された文字は覚えるのが早い私の癖です。人の顔、口で言われたことは3歩歩けば忘れる鶏です。もう、私の人生においては、貴方は、死んでいると言ってもいいのかもしれません。  過言すぎるかもしれませんが。  色んなことがありました。  精神的に虐待だと感じ、児童相談所に一時保護を受け、帰宅した日。 『お前が家を壊したんだ。』 『お前なんか生まれなければよかったんだ。』  社会人になり、鬱で仕事に行けなくなった療養期間。 『鬱なんて嘘だろう』 『ズル休みしやがって』  発達障害とわかった時 『そんなこと、小学生の時からわかっていた』 『お前が大人になって苦労したら、病院に行くだろうと思っていた』  色々なことがありましたね。  全て、日記からの引用です。  それでも愛はくれていました。  私が一人暮らしを始める時に、雑費の方がお金がかかると、私に大きな袋を持たせてくれました。中はバスタオルやら包丁やお皿、生活必需品と呼ばれるものの全てでした。 『何かあったら連絡しなさい』  そんなことを書いた手紙とともに。  1人暮らし1ヶ月後、母は入院しましたね。自宅で倒れたと、原因は大腸からの出血で慢性的の為、倒れる前から人間が生きれるギリギリの血液だったそうで、輸血も全て入院時に出し尽くし、次倒れる時は即入院。もしかしたら、という事態と。  入院を聞き付けて、直ぐに実家に顔出したこと覚えていますか?  私は、『死ね』と言われても『生きて』貴方がたに顔を出してあげたかった。ただそれだけです。母親の入院だからと、食事が大変だろうと、レトルトを沢山買って父のところに行きました。  母にも顔を出し、退院後は一緒にご飯を食べましたね。ちゃんと生活してます。貴方に奢れる程のお金は手にしています。  どんだけ、あんだけ、色々あっても、私は貴方がたを愛しています。 だから、今があるのだと思います。  燕は雛が成熟したら巣から追い出す性質を持っています。もう大人なのだからと。あの時がそうだったのだと思います。  前に記述した通り、私には顔や思い出という分野が欠如しています。良くなったり悪くなったり、思い出したり忘れたり。  貴方がたを忘れること、私の反抗期。  その中でも覚えているのは、  横須賀の東郷平八郎、三笠に行って、甲板の上で撮った写真。家族全員笑っていました。  いつかまた、貴方がたの前で自然に笑えるように、心から愛してると伝えられるように、この反抗期をゆったりと過ごします。  死ぬ前にはまた行きたいですね。  思い出の場所めぐりましょ。  愛しています。  敬具、反抗期の娘より
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