あなたたちが神と呼んだ

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「なんでよ……。三学期さえ乗り切ればもう卒業じゃない。就職先だって決まっていたのに、卒業しないなら内定取消よ。どうやって生きてくつもりなの」  食い込んだ爪が少しずつ離れていく。地面に手をついて涙を流している母を見て、みっともないと思ってしまった。 「いじめられてるって話してもなにもしてくれなかったくせに」  自分でも驚くほど冷たい声が出た。今のはまずかったかもしれないと思ったときにはもう遅かった。母は立ち上がって、思いっきり私の頬を叩いた。バチンという音が響いて、無音になる。初めて叩かれた。お母さんってこんなに感情的になる人だっけ。絶対に一線は超えないような人じゃなかったっけ。叩かれた場所を触ると、ぬめっとした感触があった。目で確認しなくてもわかる。母の爪が頬を削ったのだ。叩かれた熱と血の熱さが一緒になっているせいで、触るまで気づかなかった。 「叩く必要……あった?」 「あなたが弱いからよ。いじめなんて当事者同士でどうにかするしかないの。他の人に助けを求めるなんて恥ずかしいと思わないの」  母も動揺しているのか、手は震えていて、肩で息をしていた。自分の娘を叩いておいて、そんな顔をするぐらいなら私だって容赦しない。 「だったら、職場でいじめられてうつ病になって仕事に行けなくなったお母さんはどうなの。私なんかよりずっとずっと弱くて惨めじゃん」 「私だって頑張ってきたわよ! あんたがそう思ってるなら中卒で働くことがどれだけ厳しいか自分の目で見てきなさいよ。高校でいくら成績が良くて真面目な人として生活していても面接官はそんなもの微塵も見ていないわ」  話は終わりだと言わんばかりに、自分の布団の中に戻っていった。ずいぶん一方的に話を終わらせるのだなと呆れた。さて、ここから母と何日会話をしなくなるのだろう。今回の記録は母がうつ病と診断された日が最後だった。キッチンにかけてあるカレンダーを見て、もう二ヶ月近く経っていることに気づいた。冷めた夫婦でもないのに、家庭内別居をしているかのように無言の生活を送っていた。なにがきっかけだったのか。いつからなのかもわからない。ただ、あまりにも長く続きすぎてこれが普通になってしまった。  それから少しの時間をおいて夕食を作った。母の分はラップして冷蔵庫の中に入れる。一人で食べていると、先ほどの自分の発言全てが最低だったような気がした。感情的になって言い返したりしたが、喧嘩がしたかったわけではなかった。母が弱いことを知った上で、あえて相手が傷つく言葉を選んだのだ。  そこで初めて私は自分のしたことがいじめと変わらないことに気づいた。学校でのあいつらだって、私が言い返せなくて断れない性格なのを知った上でいじめてきたのだろう。弱いやつだって見下してたからできたことなんだ。それはきっと母の職場でも同じなのだ。惨めなのは自分だと気づく。あと少しだというのに、食事の手が止まってしまった。恥ずかしくなってしまった。明日には謝ろうと決めて、最後の一口を飲み込んだ。
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