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18時 会議室の中、簿記3級の教科書を閉じてからノートも閉じた。 それから大きく伸びをしながら天井を見上げる。 これからやろうとしていることはバカみたいなとんでもないことなのに、何故か緊張の中に高揚も含まれている。 私の命と身体を握ってくれている佐伯さんが高揚しているのかもしれない。 「経理部に顔だけ出しに行くか・・・。」 6月にある簿記3級の試験が終わるまで、私の勤務場所はこの会議室になる。 “まずは簿記3級を取ってからじゃないと話にならない。” “普通”の佐伯さんからそう言われ、私はこれから約2ヶ月間は勉強だけの為に出勤することになる。 「これでお給料を貰えるとか・・・。」 鞄にノートと筆箱を仕舞い、最後に佐伯さんから渡されている簿記3級の教科書を手に取った。 「たった数ページなのに初めて知ることが沢山書いてあった・・・。 これも知らないで3年間経理部にいたのか・・・。」 既に難しい簿記3級の教科書も鞄の中に仕舞い、会議室の扉を開けて歩き始めた。 足取りは不思議と軽い。 経理部の部屋の中に砂川さんがいることは分かっているのに、それでも足取りはこんなにも軽い。 勢いがついたまま経理部の扉を開ける。 「お疲れ様です!お先に失礼します!」 久しぶりにこんなに大きな声が自然と出てきた。 経理部の部屋の中にいた全社員が私の方を向いてくる。 「園江さん、お疲れ様~。」 「お疲れ、園江さん。」 「園江さん、簿記3級で分からないことがあったら聞いてね。」 みんなが私のことを“純”ではなく“園江さん”と呼んでそう声を掛けてくれる。 昔から何処にいっても“純”と呼ばれてきたので不思議な感覚になる。 “男”でもなく“女”でもなく、私のことを1人の“人”としてちゃんと見て貰えている感覚。 それを気持ち良く感じながら大きく頷いた時・・・ 「園江さん、こっちの教科書もよかったら見てみて。」 砂川課長が教科書を1冊手に持って私に近付いてきた。 当たり前だけどここでは何の言葉も掛ける予定がなかったのでこれには少し焦る。 「いえ、結構です。 教科書は佐伯さんに貰いましたので。」 「うん、それで分からない所があればこっちの教科書も見てみるといいよ。」 そう言って私の目の前に立って教科書を差し出してくる。 佐伯さんから貰ったちゃんとした教科書よりも随分と可愛い見た目の教科書を。 「貰える物は貰っておきなよ!」 砂川課長の向こう側に見える佐伯さんが“別人”の笑顔で笑いながらそう言った時・・・ 「お先に失礼しま~・・・・あ、それ私が使ってるシリーズ!!」 扉まで歩いてきていた福富さんが砂川課長が手に持っている教科書を見てそう言った。 「分かりやすいですよ、これ。 全然可愛くないネコが出てくるけど。」 結構可愛いネコのイラストのことをそう言ってきて、この可愛い福富さんの見た目とのギャップには笑ってしまいそうになり、慌てて口を閉じて佐伯さんの方を見た。 私の“彼氏”である佐伯さんの前で福富さんと関わらない為に。 「砂川さんがしつこく押し付けてくるので受け取りますね!」 私の言葉に経理部の人達が笑い始めた。 「砂川課長、セクハラ大丈夫ですか?」 「それ、セクハラなんじゃない?」 「あ~・・・それはセクハラだ~。」 それには思わず大きく笑ってしまった。 「砂川さんって増田生命にいる時からセクハラセクハラ心配しまくってましたよ!」 「いや、だって研修が・・・」 「定期的に研修があるんですもんね?」 「何故研修があんなにも定期的に開催されるかこっちに来てよく分かったよ。 こっちはセクハラの無法地帯だった。」 「ここの人達そんなにセクハラされてるんですか?」 「いや、俺がここの人達からセクハラを受け続けている。」 そう言われ・・・ 「じゃあ、私もここの一員になりましたのでこれから砂川さんにセクハラしますね。」 何故かこんな言葉がスラスラと出てきた自分に驚いた。 砂川さんも驚いた顔になり、その顔にはまた大きく笑いながら砂川さんの手から教科書を受け取った。 「教科書、ありがとうございます。」 「うん・・・。」 受け取ろうとしている教科書を砂川さんがなかなか離してくれず、砂川さんの顔を見上げると砂川さんは教科書をジッと見下ろしていて・・・。 「凄く元気だね、この後何か予定があるの?」 そう聞かれ、私は大きく頷いた。 「男の人と凄く大切な予定があります。」 「そうか・・・。」 砂川さんは教科書からゆっくりと手を離すと私のことをゆっくりと見た。 「お疲れ様、行ってらっしゃい。」 「行ってきます。」 砂川さんに笑い掛けながらその言葉を口にする。 これから1度帰ってから砂川さんの家に行こうと思っていることは口にしないで。 昨日のことなんて何もなかったかのように普通の顔で私に笑っている砂川さんから視線を移し、佐伯さんのことをまた見る。 佐伯さんは可愛い顔で私に手を振ってくれていて、そんな可愛い“女の子”の佐伯さんに笑いながら手を振り返すと顔を赤らめ両手で頬を覆っていた。 佐伯さんの隣には羽鳥さんが座っているはずだけど羽鳥さんのことは絶対に見なかった。 羽鳥さんのことを今見てしまったら絶対にダメだと私の本能が羽鳥さんを見ることを拒絶した。 そのまま私はまた歩き出し、このまま家に1度帰る。 この前のホワイトデーの夜、私の誕生日の夜でもあったあの日に、田代から貰ったバレンタインのお返しである避妊具を取りに。 私のことを“女”にしてくれるモノを取りに行く為に歩く。 不思議と怖くはない。 むしろこんなにもヤル気満々でそっちの方が怖くはある。 “良い子”でいるのにも疲れていたのかもしれない。 “悪い子”になるのはこんなにも良い気分で。 “悪い女”になることも楽しみでしかなかった。 「“良い子”はもう終わり。」 福富さんが乗った閉まりそうになっているエレベーターに私も飛び乗った。
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