面影の彼方へ

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 微かな水音が聴こえる。道の脇に小さな滝が流れているのだ。ここまで来ると『深大寺通り』もそろそろ終わりだ。小学校の横の坂を登ったら『東参道』の石碑、折り返し地点が見えてくる。方向を変えた雅也は横断歩道を渡り、沿道の畑に目をやった。ここには地元の小学生がソバの木を植えている。6月と9月に白い花を咲かせるというが、そんなことはどうでもよかった。彼にとって重要なのは、もちろんそれを説明している看板だった。  柵の向こう側ばかりを気にしながら歩いていたのがよくなかった。突然何かにぶつかった雅也は、強い痛みと衝撃を感じた。そのまま後ろに尻餅をついてしまう。  尻をさすりながら立ち上がると、1人の女が顔をさすっていた。髪は短く刈られていて、右目の下にほくろがあった。その表情はおどおどとしているようでも小狡いようでもあり、とにかく厭な感じだった。以前に会ったことがあるような気がしたが、どこで会ったのかは全く思い出せなかった。女は雅也の顔を碌に見もせず、看板の方へ目線を向けている。やがて、彼女はおざなりな会釈をすると、雅也の横を走ってすり抜け、横断歩道を渡ってしまった。そのまま、今登って来たはずの坂を猛然と駆け下りて行った。 「変なのがいるもんだな……」  呆気に取られて一部始終を眺めていた雅也は、思わず吐き捨てた。改めて看板を覗き込む。 「きにすることないよまさや」  美香もそう言ってくれていた。そうだ、くだらないことに時間を使っている場合じゃない。俺にはまだまだ話したいことがたくさんある。時間がいくらあっても足りないんだ。  そう、時間がいくらあっても足りない。だから、雅也にとって元恋人の鈴木美香が本当は死んでなどいないことは、どうでもよかった。さっきぶつかりかけたのが生きて動いている美香本人であることも、彼女も彼と同じように看板の中に『雅也』を見出しているであろうことも、全部どうでもよかった。 「それよりずっと大事なことがある。だろ、美香」 「そうだねまさや」 恋人との"会話"を再開した雅也は満面の笑みを浮かべ、ゆっくりと坂を下って行った。
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