面影の彼方へ

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 バスを降りて横断歩道を渡ると、歩道の端に『西参道』と書かれた石碑が見えた。その碑を横目で見ながらまっすぐ進んでいくうちに、街路樹の緑が増えてくる。それと同時に徐々に大きくなっていく蝉の声が大橋雅也の身体を包んだ。ジージーというアブラゼミの声。「夏本番」という気分にさせてくれるミンミンゼミが鳴き出すにはまだ少し早かった。しかし、気温は35度を優に超えており「夏本番」と言っても申し分ないものだった。雅也の顔にも玉のような汗が浮いてくる。蕎麦屋や土産物屋が軒を連ねる『深大寺通り』は、この暑さにも関わらず観光客で賑わっていた。1人で来ている人よりも家族連れやカップルの方が心持ち多いように思える。雅也自身も少し前までは恋人とこの場所を訪れていた。  鈴木美香、短く刈った髪と右目の下のほくろが印象的な人だった。控えめな笑みをいつも絶やさない心穏やかな彼女のことが雅也は大好きだった。過去系だ。彼女は既に喪われている。鬼太郎茶屋の周りで延々と写真を撮り続ける彼女に付き合ったことも、今日と同じくらい暑い日に植物園の温室に入って熱中症になりかけたことも、1時間待ちの行列を経てようやく評判の蕎麦屋に腰を下ろしたことも、全ては過去のことになった。未来の予定に書き加えることはできない。  それにしても、今日は暑い。ひっきりなしに大粒の汗が頬を滴り落ちていった。いけない、下ばかり見ているから汗が垂れるのだ。雅也は努めて上を向いた。真っ青な空に点々と浮かぶ雲が目に入る。そうだ、それでいい。今日この場所に、深大寺にどうして来たのかを危うく忘れるところだった。そう、雅也は恋人を悼むためにここに来たのではない。彼女に会いに来たのだ。
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