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慟哭
温かい日だった。ここ何日かジェシカと走っていて一番の心地いい日だった。
「ねえ、昼寝でもする?」
ジェシカがぼくにそう聞いてきた。さっき小さいシカの子どもを狩った。ふたりでぜんぶ食べた。なかまに持って行くには小さすぎたからだ。そういうのはそこで食べていいことになっていた。お腹がいっぱいになったオオカミは、とにかく寝っ転がるのが好きなのだ。まあ犬もだけど。
「あそこの茂みにしよう。ちょうど日当たりもいいし、お昼寝にはばっちりだわ」
浮かれたようにジェシカがそう言った。そういう顔をするジェシカはまだほんの子どものような感じで、なんだか、女の子って気がした。それはそう大きくないヒマラヤスギの根元で、ちょうどいい具合に下草もない。杉はあたりの日光を独り占めして厄介な下草を生やさせない。そこに杉の枯れた枝葉が積み重なって、心地よいベッドを作ってる。
ねえ知ってる?杉の葉は針みたいだけど、すごくいい匂いがするんだよ。ぼくらはふつうにそう思うけど、嗅覚の鈍感な人間はちょっと工夫がいる。ロバートはぼくとよくキャンプをした。ロバートは好んで杉の枯葉や枯れ枝を焚火にくべた。その香りにロバートはいつもうっとりしてたけど、ぼくは火にかかってるベーコンやボロニアソーセージの方が気になって、それどころじゃなかったっけ。
でもいまは、そういういい匂いはしなかった。
「待って」
短くジェシカはそう言った。ああ、ぼくも感じる。なにかが匂う。そいつはヒマラヤスギのいい匂いとは違う。もっとはげしく生臭い、震えがくるような匂い…。犬のぼくらは腐ったような匂いに弱い。まあ強いて言えば好き、というか臭くてタマランけど嗅いでいたい、いやなめてみたい誘惑にかられる。ロバートが、フランス製のブルーチーズにうっとりするようなものだ。
だけどその匂いのなかに、ヤバい匂いも混じっていた。
「グリズリーの匂いだわ」
ジェシカがそう言っただけで危険度は跳ね上がった。ここらはやつらのテリトリーじゃないはずだが、やつらは絶えず移動する。季節ごとに。たまたまそれに出くわしたのかもしれない。
「なにかあるよ」
犬族はえてして視力はさほど良くない。見通しの悪い森林で視力はそれほど頼りにならないから、きっとずっとむかしに衰えていったんだ。そのかわり嗅覚が発達した。人間は犬の色覚はモノトーンの世界で、色を見分ける能力はないと言っているが、実際は色は温度で見分けられる。色による温度差だ。人間のように繊細な色覚はないが、水と血くらいはわかるのだ。
「どうやらお食事中だったみたいね。あいつらの…」
そこには散乱した内臓と肉片、そして骨があった。その肉片のまわりに、かつて見たことのある毛があった。
「ミーア!」
ぼくは叫んでいた。なんでこんなになったのか。いったいなにがあったのか。そんなことを考えるのはむなしい。森では何が起きても不思議ではないのだ。生きて、死ぬ。ただそれだけだ。それだけだけど、どういう死に方をするかは、それは運だとしか言えない。死んだり生きたりするのは、きっとロバートの言う、神さまのせいなんだ。神さまの気まぐれでミーアはグリズリーに捕まって、食われた。ただそれだけなんだ…。
「ミーア…」
もうぼくは目の前が真っ暗になった。心臓が締め付けられる。こんな気持ちになったのははじめてだった。
「リック…あんたの知ってるやつなのか?」
「うん…。ミーアと言って、この森の女王だったんだ」
「そう。森の女王も、あいつに食われちゃったんだね。あの、ウイットナプにね…」
「ウイットナプって?」
「ここらじゃそう見ないでかいハイイログマ…グリズリーよ。あいつは恐ろしくでかくて凶暴で賢い。人間はやつをウイットナプと呼んでいる。まあ人間って言っても都市に住んでるやつらじゃなく、先住民族の人間。インディアンと呼ばれるイロコイ族や、ほかにイヌイット族たち。白人のハンターたちはそれを訳して『クレイジー・ハンド』って言ってるわね」
クレイジー・ハンドってなにそれ恐い!しかもグリズリーって…もう出会っただけで死んじゃうやつだ。
「食われたあんたのお友だちが森の女王なら、そいつはきっと森の魔王ね」
もうぼくは腰が砕けてしまった。ミーアの死…ああ、あんなにきれいな毛並みが、いまはこんなになって…優しい瞳も、あのふさふさだった美しい毛並みも、そして可愛らしい短いしっぽも、もういない。
「ぶっ殺す!」
ぼくは思わずそう言った。なんでか知らないけど、そういう言葉が口から出た。
「あ、あんたなに言ってんの?勝てるわけないじゃない。相手はハイイログマよ?大きな杉の樹でも一発で倒しちゃうのよ?」
「なんだろうとぶっ殺す」
ぼくはきっと、あらゆる体の器官からそういう匂いを出していたんだろう。ジェシカも、そこらの森の動物も、みんな悲鳴を上げるほどだった。
まあ頭の隅で、まともにやったら勝てないってのは、うすうす気がついていたけどね。怒りと悲しみの中で、ぼくは何とかそういうふうに自分を保っていた。それはぼくが、少しはワイルドになったんだと、そういうふうに納得したんだ。
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