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遭遇
体の痛みと、疲労とそして、おなかがペコペコだった。さっきのヒトの腕が…思い出すと唾が出てきた。いけないいけない!ぼくはそんな…。
気がつくと真っ暗な森だった。そうしてとても嫌なにおいがした。それはときたま、散歩の途中で嗅ぐあの匂いだった。ぼくらの住むイエローナイフはやつらの棲家とも近い。やつらとは、そう、ハイイログマだ。ひとはやつらをグリズリーって呼んでいる。やつらは凶暴で貪欲で賢い。おそらく世界で一番強いかもしれない。そいつがたまに町に出てくることがある。まあハンターたちがすぐに仕留めてしまうけどね。人間はそれほど優秀で、そして動物にとって恐ろしいのだ。
伏せろ!
ぼくは自分にそう命令した。近い…。ハイイログマだ。まったくなんて匂いだ。はながもげそうだ。
「どこにいるクソ野郎」
そうつぶやく声がした。あいつも鼻がいいはずだ。だがぼくの匂いに気がつかない。ぼくが風下にいるせいと、そうして飛行機の残骸から漂うあの匂いがぼくを隠してくれたんだ。
「…おい、なにしてんだ!こっちこい」
小さな鋭い声だった。その声の方に鼻を向けると、そこに小さな何かがいた。
「きみは誰?」
「いいから!そこから離れろこのウスノロ!」
「え?」
「まず姿勢を低く、そして足音を立てるな。そこのシダの葉より低く、ゆっくり素早くだ」
無茶言うな。そういうのは無理。ぼくはネコ科じゃないんだからな。音をたてずに歩くなんて…。
「ほらほら、なんで尻尾振るかな?何かいいことあったのかよ」
「いや、癖で」
「誰にでもしっぽなんか振るんじゃねえよ。甘ったれのおバカさんにしか見えねえぞ」
「だってぼくは…」
飼い犬なんだぞ。だれにでも尻尾振れって教わったんだ。だいたい、みんな優しい人ばかりなんだ。となりの家のマーサや、向かいの家のエジンバラさん。郵便配達のケインズや、スポーツショップのマイケル。とくにマイケルは、ぼくに興味があるようで、ロバートにぼくを譲れって言ってたくらいだ。
「おまえ、なんだテイムドかよ」
「テイムド?」
「飼い犬ってことよ」
このおかしな生き物は何だろう?なんか、でかいリスみたいだけど。
「きみはなんなの?」
「俺さまか?」
ハイイログマは遠くに行ったようだ。もう匂いも気配もしない。そこに漂うのはむせかえるような植物たちの息吹と、朽ち果ててさまざまな菌に喰われている倒木の匂いと、そうしてカビの匂い。あとは土と泥と、やはり腐りつつある落ち葉の匂い。その倒木の端でおかしなポーズをとるそいつは、ぼくを指さした。
「おまえがこの森で生きていくのは無理だな。なぜなら、なにも知らないからだ。グリズリーがあれだけしょんべんや爪痕を残してもおまえはノコノコとその圏内に入り込んできやがる。俺がいなかったらおまえはいまごろやつの腹の中だぞ」
たしかにそうだ。ぼくはやつのテリトリーに入っていた。鼻が利かなかったせいもあるけど、ぼくがもっと注意深かったら、そういうことにはならなかったはずだ。
「だってそんなことわからないだろ!ぼくはこんな深い森には来たことないし、来たくもなかったから!」
「だがおまえは来た。違うか?」
「だってそれは…」
「要は、生きたいのか、死にたいのかだ」
生きたい?そりゃもちろん!生きてロバートのところに帰りたい!温かいご飯と温かい暖炉と…。
「生きたいよ。生きてロバートに会いたい」
「よかろう。ならばこの森、いやこの山々で生きる術を教えよう」
そうそれは言った。このおかしな生き物は、なんでぼくにそう言ったのかはわからなかったけれど、たしかにぼくはこのままでは死んでしまう。ぼくは何も知らない。この森で、この山でいきる術を知らない。だが彼は頼れと言った。生きる術を教えると言った。ぼくは決めなければならない。
「ぼくは…まだ小さな…子どもです。力なんかありません。嚙む力も、斬り裂く強い爪の力もありません。そんなのがどうやってこの恐ろしいところで生き残れるんですか?」
「たしかに、おまえなんか秒で死ぬよこのままじゃあな」
やっぱそうだよなあ。ああ、しんじゃうのかあ…。
「だがわしの言う教えを守れば、生きることもやぶさかではない」
「ほんとですか!」
「ウソは言わん。われらウッドチャックの誇りにかけてな」
「ウッドチャック?」
「まあマーモットというリスの仲間じゃ」
リス?リスってこんなでかかったっけ?デブのシェットランドシープドッグくらいあるぞ。
「ぼくは生き残りたいです!」
「ならこれよりわしを師匠と呼べ」
「はい師匠!」
ぼくはこうして先生に巡り合った。
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