女王

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女王

身体は凍るほど冷え切っていた。どうやらまた気を失っていたみたいだった。目が覚めると、そこは川の中州みたいで、ぼくは流木のあいだにはさまっていた。思い出したよ。スズメバチに襲われたんだ。すっごい大群で、あんな大群に刺されたらぼくは絶対死ぬと思った。その命の危機がまだあった。このままここにいたらヤバい。こいつをどうにかしないとぼくは死ぬ。ぼくは一生懸命もがいた。 うまく抜け出せるかな? うんうんともがいて、やっとその流木から抜け出せた。もうあたりは薄暗くなっていて、あの飛行機の墜落現場からずいぶん離れちゃったと思った。もうあの嫌なにおいがしなかったから…。 ぼくは全身をブルブルとふるわせて、その水に浸った毛から川の水をはじきだした。ようやく寒さが消え、ぼくは少し安心した。 ここはどこなんだろう?もう師匠の声も匂いもしない。ずいぶんと川に流されちゃったんだ。きっとここが世の中の終わりに違いないんだ。そんなことを考えていたら、急にお腹が鳴った。薄暗い中、川に魚が泳ぐのが見えた。前にロバートが釣りをして、釣り上げたマスを焼いてくれたっけ。ほっこりとして淡白で、とてもいい味だった。まあぼくはむしろその味付けのバターにうっとりしたもんだけどね。いけない、よだれが出ちゃった。よし、こいつをぼくの夕食に! パシャ 音だけで、ぼくはどうやっても魚は捕れない。まあこいつらはバカじゃないんだ。バカなぼくに捕まるはずはないよな。 「そこの食いしん坊のあなた。そんなんじゃ魚なんか捕れないわよ」 「え?」 岩陰におかしな生き物が寝そべってこっちを見ていた。それはまるで大きな猫。ぜんぜん気がつかなかった。 「はあ、まるっきり素人ね。だいいちあんた爪がないでしょ。あたしのようなまるで三日月のような、鋭くとがった爪が、ね?」 なにこいつ。すげえ偉そうだし、なに自慢してんだよ。 「きみは誰?」 その獣は岩陰からすっくと四つ足で立った。大きくしなやかで、そして恐ろしい力を秘めていると思った。 「あたしはミーア。それはあたしが勝手につけた名。まあ人間はあたしのことをカナダオオヤマネコって言うわ。だが侮っちゃダメ。あたしは森の女王。この森はあたしの森なの」 「ミーア…ぼくの名前はリック。飼い主のロバートがつけてくれたんだ」 森の女王っていったい何だ?えらいのだろうか?まあ偉そうにしてるけど。 「あんたは犬族ね。種類は?」 「あー、うんとね、ロバートはぼくをシェパードって言っていたよ」 「シェパード?マジで」 「うん。ジャーマン・シェパードってぼくのことを」 「ふうん、まあちっさいから怖くはないかな」 怖い?ぼくが怖いって?おかしなことを言うおねえさんだな。 「ところであなたは猫?」 それは隣の家のマーサの飼い猫のチュルシーのように、そのしぐさはなまめかしく、まるでこの世のものではないような感じがした。 「ふふ、そうね…どうかな。ねえ、猫って人間に飼われたやつでしょ?あたしらは違う。まるっきり自由なの」 「自由?」 「そう、何者にも束縛されない自由な生き物よ」 束縛…自由…考えたこともなかった。ひとに飼われるってことは、束縛や不自由ってことか?いやそんなことはない。ぼくはロバートとずっと自由に暮らしていた。 「ぼくだって自由だよ!」 「はあ?あんたのその首に巻いてるのは何?ここらに狩りに来るハンターの連れている犬どもがそれをしている。首輪って言うんだ。それこそ人間に隷属した証なんだよ!」 「うそだ!」 うそだ。なにを言っている。隷属だなんて。ぼくはロバートの奴隷なんかじゃないぞ! 「まあどうでもいいわ。あたしはお腹が減ったの。あんたは?」 「ぼ、ぼくは…」 ぼくのお腹はさっきからひっきりなしに食べ物を要求してキューキュー鳴いていた。 「ついてらっしゃい」 その大きなヤマネコはぼくについて来いと言った。さんざんぼくを否定していたのに、おかしなやつだ。 「あの…」 「静かに!あんた足音どうにかなんない?ドタドタうるさいのよ」 「ぼくは猫じゃないから忍び足はできないぞ」 「は?あんたの足裏はなんですか?あたしと同じ肉球ついてませんか?」 そう言われりゃそうだ。こいつは足音を消すためだと、いま気がついた。 「あの…」 「いいから静かに!そこに巣穴があるよ」 「巣穴?」 「シカネズミの巣だよ」 ネズミの巣穴って、あんたネズミを食うんですかい? 「ネズミ、ですか?」 「なんだよ?浮かない顔だね」 「あのーネズミなんて、美味しいんですか?」 「ごちそうに決まってるじゃないか。まだ生きているシカネズミの首筋に噛みついて、その血をチューチューすするのがたまらないんだわよね」 うわあああああああ。キモい!まだ虫の方がマシだよ。 「ぼくにはムリそうだ」 「情けないこと言わないの。そんなんじゃこの森じゃ生きてけないわよ。それにいつかあいつらとも出会うだろうし」 「あいつら?」 「そのときまで、少しは強くならないとね」 そう言って森の女王ミーアはシカネズミの巣穴に潜っていった。スルスルと、まるでほかの生き物のようだった。 しばらくしてミーアは真っ赤な血を滴らせた大きなネズミをくわえてきた。 「ほら食いな」 それをぼくの足元に置いた。ぼくはまだ命の湯気が立っているその大ネズミのからだを震えながら見ていた。 「生きててめえの飼い主ってやつに会いたいなら食え。じゃなきゃどこかに行っちまえ。生きる覚悟のないやつに未来もないし、だからなにも教えることはないよ。せいぜい誰かの餌になるがいいさ」 ミーアはそう言い、また巣穴に潜って行った。ぼくはどうしたい?ぼくはどうすればいい?生きたい!生きてロバートに会いたい! ぼくの口の中に血の味と、肉の味が広がった。それはいままで経験したことのない味だった。いままで食べていたのは死んだ動物のなにかを混ぜ合わせた貧弱な食べ物のような気がした。いまぼくが食べているそれは、本当の意味での命の味なんだ。 ぼくは全身を震わせて、それを貪り食べた。
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