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別離
こうしてぼくと、森の女王との奇妙な生活がはじまった。
カナダオオヤマネコのミーアは陽の沈むころ、倒木の折り重なった隙間の巣穴から起き出す。いわゆる夜行性ってやつで、夜にはもっぱら狩りをする。昼間はずっと倒木の巣穴にいて、ミーアはだらしなく寝そべってばかりいた。ぼくはすごく暇なので、ミーアの短いしっぽにじゃれついたりしていたが、ミーアは嫌がらず、ただしっぽを煩わしそうに動かしていた。たまにぼくの全身をなめまわしてくれるけど、ミーアのそのときの仕草に、ぼくはドキドキしっぱなしだった。
「ほらそっちに行ったよ」
「まって!素早くて逃げちゃったよ」
「あんたほんとにとろいねえ。イタチにまでバカにされて」
呆れたようにミーアは言うが、なんだかそれは優しい言い方だった。
「バカにされたくなかったら相手の思考を読むことね」
「思考?なんですか、それ」
「テンやイタチ、アライグマもみんな考えてんのよ。どうすりゃいいかって。そいつらの習性も含めてなにを考えているか先読みするの。そうすりゃ少しはまともな狩りができるわよ」
「先読み、ですか…」
なんか難しそうだけど、生きるためにはやるしかないんだ。っていってもイタチの考えなんてわからないよ。
「イタチはネズミやリスなんかが大好物。あとは虫ね。そんなのは昼間っから外でのんきに歩いちゃいない。みんな暗がりに身をひそめ、行動する。とうぜんそれを狙うやつらも夜に行動するの。そしてそれは巣からあまり離れない。巣の場所さえ押さえとけば、狩るのは簡単なのよ」
「なるほど。だからミーアも夜に狩りをするんですね」
「あたしは単に昼は寝たいだけ。だって日焼けはお肌に悪いもの」
いや日焼けってそれはないだろう。
「それと、もうひとつ大事なことを教えるわ」
「なんですか?大事なことって」
「ふん、それは自分じゃどうしようもないことよ」
自分じゃどうしようもないこと…。それはここに放り出され、ひとりぽっちになったこと。そういうことなのかな?
「山には美味しい獲物がいっぱいいる。そのかわり、恐ろしいものもいっぱいさ。グリズリーにピューマにグズリにオオカミども。どれも出会いたくないやつばかりさ。恐ろしいのはそれだけじゃないよ。そこを覗いてご覧」
ミーアが示す方向はなんでもない茂みだ。遠くで風の音がする。なんだかそこだけ空気の温度が低いって感じがする場所だ。
「これが恐ろしいんですか?」
「茂みに首だけ突っ込んで見てみな」
意味がわからなかったが、ぼくは茂みのなかに顔を突っ込んだ。
「あっ!」
茂みのすぐ下は峻険でものすごく深い谷だった。知らないで一歩でも踏み込んだら、あの谷底へ真っ逆さまだ。
「山は危険だらけ。自分じゃどうしようもない。だからそこで生きるには知恵も知識も必要なの。おわかり?」
「はあ」
そうしてぼくはミーアに山のことや狩りを教わり、やがてひとりでもネズミやイタチを仕留めることができるようになった。幾日ときが経ったろう。ある夜のこと、ミーアはとても苦しそうな声を出した。
「どうしたの?ミーア」
「うるさいっ!ほっておいて」
いつになく強い口調でミーアが怒鳴った。それは恐ろしい獣の本性のように思えた。
「ミーア…」
しばらくして体をふるえさせながらミーアはぼくの寝ているところに来た。さっきまでの恐ろしい顔ではなく、なにか悲しそうな顔だった。
「リック、聞いてちょうだい。あたしは子を産まなくてはならない時期になった。もちろん相手はこれから捜すんだけど、そういう時期にはあたしはあたしでいられないのよ」
「どういうこと?」
「すべてが敵に見えちゃうの。もちろんあんたも。あんたはとても好き。でもそれすらわからなくなる。それが野生の本能なの。ゆるしてね…」
動物には繁殖期というものがある。子供のぼくはわからなかったが、近所の犬猫はみなその時期が来るとときおり狂ったようになった。もっともチェッキーとか近所の犬たちはみな虚勢っていうのをされてて、そういうのとは関係がなかったが、野良猫たちはその期間、ずっとケンカをしてばかりいた。
「ぼくはどうすればいいの?」
「できるだけ早いうちに、あたしから離れなさい」
それは唐突な別れの言葉だった。でもそれは仕方ないことだ。動物は生きて子孫を増やすことが一番大事だ。それ以外は必要ない。
「明日の朝、出てくよ」
「ごめんね、リック…」
「いままでありがとう、女王さま」
その晩ぼくはミーアに抱かれて眠った。ミーアはずっと小刻みに震えていた。きっとぼくのために我慢してくれてたんだろう。
翌朝はすごくいい天気だった。森の中にキラキラとお日さまの光が落ちている。悲しい気持ちを紛らわせるには十分すぎた。
「じゃあさようなら、ミーア」
「さようならリック。ねえ、オオワシに気をつけるのよ。やつら目がいいから見つからない方が難しいけど、うまく隠れながら行きなさい」
「わかった」
「それとクマの巣穴にも気を付けて。ハイイログマなんかに出会わないようにね」
「うん、気をつける」
まるで母親のようにぼくを送り出してくれる。ああ巣離れってこういうことを言うんだろうね。そういやぼくもずいぶん大きくなったな。前は通れた倒木の下も、いまはちょっとくぐれない。まあその分、噛む力や走る力は驚くほど強くなったけど。
でもこれからどうしよう。そうだ、とにかく人のいる町まで行こう。そうすればロバートのこともわかるかも知れない。
ぼくは渓谷沿いを下ることにした。
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