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私は美人
「あらあ、もう六時半だわ」
私は情けない声を出した。
布団の中から手だけを出して、目覚まし時計を止めた。
静かになってほっとしたら、今度は携帯電話のアラームが鳴り出したの。もう嫌になってね、文句を言っちゃったわ。
「困るわねえ。私は眠いのよ」
昨夜は終電に乗って帰宅した。
ベッドに入ったのは午前二時を過ぎた頃だったと思うのよ。楽しかったけれど、少し遊びすぎたようね。
眠くてたまらない。でも、今日は出勤日。頑張って起きたの。お化粧していたとき、大きな欠伸が出てきて笑ったわ。
玄関で靴を履いていたら、お母さんがいつものように忠告してきた。
「ね、美華子。知らない男性とは絶対にお話ししないでね」
この言葉、私は二十年近くもお母さんから聞かされている。正直、うんざり。
「どうして、朝のバタバタしているときに言うのかな」
「それはね、美華子が凄い美人だからよ」
お母さんは不安顔になって話を続けるの。
「美華子ほどの美人が道を歩いていたら、誰だって気になるわよ。だから、お母さんは心配しているのよ」
少し苛々してしまって、私は素っ気ない返事をしたの。
「もう、分かったから」
お母さんは悲しそうに言うのよ。
「美華子が悪いひとに誘惑されたら、お母さんはどうしたら良いのかしら」
黙る私にお母さんは念を押した。
「油断大敵なのよ、世の中は」
私はわざとらしく腕時計を見た。
「じゃ、遅刻するから行くわね」
駅までの道で考えた。
両親、特にお母さんの忠告は煩くてならない。
でも、お母さんが私を心配するのも分かるわ。だって、いつでもどこでも、私はひとの視線を集めてしまうもの。町を歩いたらすれ違うひとは振り返り、電車に乗れば隣に座る男性が頬を赤らめる。
自分で言うのもなんだけど、私はかなりの美人のようね。
小学生の頃、私は「美少女の美華ちゃん」と呼ばれていた。高校生になる頃からは「美人の井田さん」になったわ。この顔の美しさを褒められる度に私は思うのよ。
「美人に生まれて、やっぱり嬉しい」
今日は忙しくなる。
直属の上司である浜岡チーフが、本社へ行かれているから。
人件費の関係で、浜岡チーフは日用品だけでなく、加工食品も担当されているわ。
日用品は私、加工食品は太田瑠美ちゃんが担当している。
ええ、正社員三人とパートさん十人でチームを組んでいるの。
浜岡チーフがお留守だから、今日の私は瑠美ちゃんと協力して頑張らなきゃならない。今日は残業になるって、朝ごはんを食べながらお母さんに話した。
そんなわけで、開店前に事務所で行われる朝礼にも私が出なきゃいけないの。また、お客さんからクレームが来れば、私が対応することになる。話がややこしくなれば、優しい稲葉店長に助けてもらうつもりだけど。
あ、説明が不十分だったわね。
衣料品や家電なども扱っている大手スーパーで私は働いている。
私が勤務するのは東京都内の大型店舗。大学を卒業してから、二十五歳の今日まで頑張ってきたのよ。もちろん、これからも全力で働くつもり。
さて、朝礼が始まる前にお化粧を直さなきゃ。
お客さんに「綺麗な店員さん」と言われたら、疲れている体と心は、それだけで慰められた。冷たいひともいる職場だから、本当にありがたいと私は思っている。
昼休みになった。
私は社員食堂に行った。
端のテーブルに座って、ひとりでお昼ご飯を食べる習慣。誰も私を誘ってくれない。私も自分からひとを誘えない。そんなわけで、私はいつもひとり。初めは寂しかったけど、もう慣れちゃったわ。
それよりも、今から食べる日替わり定食のほうが大切。
今日はビーフコロッケ定食。私はこれが大好き。ソースの辛さがね、堪らなく魅力なのよ。見た目はそうでもないけど、食べると少しピリッとしていてね、本当に美味しいのよね。
わくわくしながらお箸をとった瞬間、後ろから話しかけられた。
「井田さん。隣、座って良いですか」
私が誘われるなんて珍しいことよ。驚いて振り向いたら、加工食品担当の瑠美ちゃんが立っていた。
「一緒にご飯しましょう」と瑠美ちゃんはにっこり。
人見知りが強い私だけど、仕事での関係もあって、瑠美ちゃんとはけっこう話している。
私は微笑んだ。
「どうぞ。一緒に食べましょうね」
瑠美ちゃんは私の真ん前の席に座った。
まあ、ショートカットの髪にオレンジ色の口紅が爽やかだわ。大きな瞳がきらきらしていて、なんて可愛いのかしら。
「あーあ、お腹空いちゃった」
そう言って、瑠美ちゃんはカツ丼が載せかねたお盆をテーブルに置いた。
今日も人懐っこい笑顔で私に話しかけてくる。
「今日はカツ丼です。忙しい日はカツ丼が最高ですね」
カツ丼から良い匂いがしている。卵がとろんとしていて美味しそうなカツ丼。玉葱もいっぱい入っている。
「ええ、分かるわ。カツ丼を食べたらパワーが出るもの」
瑠美ちゃんはにこにこして話を続ける。
「それだけではありません。カツ丼は機能的だと思います」
瑠美ちゃんは得意そうに深緑色の丼を撫でさすった。
「あら。瑠美ちゃんはカツ丼に詳しいのね」
「やだ。私は丼物の研究家じゃないですよ」
私が褒めると、瑠美ちゃんは大口開けて笑った。
「忙しい日のお昼はカツ丼が良いという実感です」
「どうしてカツ丼が良いのかしら」と私は首を傾げた。
「はい。丼物はご飯と同時にお肉や卵も食べられて、今日みたいに忙しいと、時間的な問題を解決してくれます」
私は感心した。瑠美ちゃんって凄いわ。その日の業務を考えて、ご飯のメニューを選んでいるのね。
私は気が付いた。
熱いお茶を飲みながら、瑠美ちゃんが私の顔をじっと見ている。
怖いわ、瑠美ちゃんの探るような目付き。
「どうして、私の顔を見ているの」
瑠美ちゃんは急いで笑顔を作った。
「すみません。じろじろ見ていて」
「謝らなくて良いのよ」と私は微笑んだ。
「私の顔にコロッケのソースがついているかと思ったの」
瑠美ちゃんは大きな声を上げて笑った。
「いえいえ、違いますよ」
瑠美ちゃん、明るい笑い声が若々しいわよ。少し羨ましい。
瑠美ちゃんはまだ笑いながら、私を見ていた理由を教えてくれた。
「井田さんは本当に美人だなと思って見ていました」
私も大きな声を上げて笑った。
「あら、やめて頂戴。私なんて、そんなに美人じゃないわ」
瑠美ちゃんは首を横に振った。
「そんなに謙遜しないでください」
「謙遜しているわけじゃなくて」
私は口ごもった。
美人だけど魅力がないと、自分でも分かっているの。
瑠美ちゃんはうっとりと私を見つめた。
「井田さんは同性の私から見ても、凄く女らしいひとです。切れ長の目って、色っぽいですね」
私は素直に礼を言った。
「有難う。褒めてもらえると嬉しいの」
「井田さん、もてるのでしょうね」
私は苦笑した。
「それがね。私、恋愛にはあまり縁がないの」
瑠美ちゃんは「う~ん、そうかな」と考え込んだ。
「実は、井田さんのこと、みんなが噂しています」
私はみんなに噂されているのね。それが良い噂なら嬉しいのだけれど。
「教えて頂戴。私は何を言われているの」
「えーと、噂というほどではなくて」
瑠美ちゃんはためらっていた。
私は悲しくなった。きっと、私の良くない噂がお店で流れているのよ。
「私って、良い評判がないのだわ」
悲しくて声も震えてしまう。
「それって井田さん。少し考えすぎですよ」
泣きそうになっている私に、瑠美ちゃんは目を伏せたままで言った。
「そういうタイプの噂じゃないですから」
「それじゃ、どんな噂なの」
可愛い顔を引きつらせて、瑠美ちゃんは私に教えてくれた。
「井田さんは凄い美人なのに、彼氏がいないのは何故かなって」
瑞々しい千切りキャベツを見つめ、私は考え込んだわ。
どうしよう。
瑠美ちゃんの話にどのように答えれば良いのかしら。本当のことを話したら、瑠美ちゃんは私を嫌いになると思うの。嘘をつくのは悪いことよね。でも、嘘も方便というじゃない。そのさじ加減が難しいだけで。
困ったわ。
やっぱり嘘はだめよね。それって、ひととして恥ずかしいことだもの。
いずれにしても食事は続けるわ。冷めたビーフコロッケは美味しくないから。
ひたすらビーフコロッケを食べるだけの私に、瑠美ちゃんは申し訳なさそうな顔を見せた。
「余計なこと、聞いちゃいました。井田さんに嫌われたかも」
大きくて丸い目が不安そうに私を見つめている。
私は慌てて瑠美ちゃんに話しかけた。
「違うわよ。私はせっかくのビーフコロッケが冷めないうちに食べたいの」
まだ不安そうな瑠美ちゃんを慰めたくて、私はもう少し詳しい話をしようと考えたわ。黙ってご飯を食べていたから、瑠美ちゃんは私を怒らせたかと心配になったのよね。
「私ね、好きなひとがいるの。結婚もしたいけど、それが難しくてね」
瑠美ちゃんは怪訝な顔になった。
「話がよく分かりません」
私は正直に答えた。
「そのひとには奥様がいるの。それから、子どもさんが二人。そうそう、二人とも男の子なのよ」
目を閉じて絶句する瑠美ちゃん。
まあ、これが普通の反応よね。それに、瑠美ちゃんは今年の春に新卒で入社したばかり。いろいろな意味で、まだ汚れていないと思うの。
「あら、瑠美ちゃんはびっくりしてるのね」
私に笑われて、瑠美ちゃんは顔をひきつらせた。
「それ、冗談ですよね。井田さんって、面白いひとなんだ」
私は朗らかに笑った。
「あら、私は本当の話をしているのに」
ついに瑠美ちゃんは沈黙した。
引きつった顔のままで、自分の前に置かれた丼鉢を見つめている。
私、少し正直すぎたようね。正直というより、馬鹿正直なのだと自分でも呆れた。可愛い瑠美ちゃんだけれども、このような質問には適当に答えておけば良かったな。
瑠美ちゃんはお冷グラスに手を伸ばした。
「喉がカラカラ」と呟いている。
一口だけ飲み、そのあとはグラスを手に持ったままで考え込む瑠美ちゃん。私に何か言わなければと思案しているようね。
私も何か言ったほうが良さそう。そうね、私は不倫していないと適当に伝えておくわ。それこそ嘘も方便。正直に何もかもを話す必要はないのよね。
「大丈夫。そのひとは愛妻家でね、私は相手にされていないの」
瑠美ちゃんはうつむいて「あ、はい」と小さな声で返事した。
それきり、また黙りこんだ。
どうしよう、気まずい雰囲気になってきている。
突然、瑠美ちゃんは椅子から立ち上がった。
「じゃ、休憩終わりなんで。お先に失礼します」
私にペコッと頭を下げると、瑠美ちゃんは急いで食べ終えたカツ丼のお盆を手に持った。それを返却口に置くと、ころびそうになりながら社員食堂から出て行った。私の告白に動揺したようね。
その若々しい後姿に寂しく呟いたわ。
「そんなに驚かないでよ。私の話、半分は嘘なのよ」
私、自分に呆れている。
彼が私に関心がないだなんて、凄まじい嘘をついてしまったから。
たしかに彼は私の心に関心がない。私の顔や体にだけ、彼は強い関心を示してくるの。
昨夜も私は彼とホテルで過ごした。
乱れたシーツの上で、彼は私を強く抱きしめて囁いた。
『美華子。僕達の体は相性が素晴らしく良いのだ』
『ええ。私もそう思っているわ』
そのおかげで帰りが遅くなってしまってね、今日は睡眠不足なの。
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