追想1-⒂

1/1
前へ
/43ページ
次へ

追想1-⒂

「えっ、兵吉君の妹さん? ……もちろん覚えてるわ。あの小さかった子がこんなに素敵なお嬢さんになったのね」  洋菓子店の奥にあるテーブルで流介と亜蘭を迎えた刹那は、亜蘭が自己紹介をすると嬉しそうに目を細めた。 「刹那さん、実はあなたの似顔絵の腕前を見込んでお願いがあるのです」 「お願いって……それは私がどなたかのお顔を描くってことかしら?」 「お察しの通りです。亜蘭君が女学校にいた頃、見かけた外国人を描いて欲しいのです」 「外国人……」  流介の唐突な頼みに面喰ったのか、刹那は目をぱちぱちさせながら「構わないけど……特徴は覚えてらっしゃるのかしら」と不安げに言った。 「はい、ある程度は……なんとなくですけど、露西亜人のような気がします」 「そうなの。上手く描けるかどうかわからないけど、できるだけやってみるわ」  刹那はそう言うと、一尺足らずの細長い紙の箱を取り出した。 「筆ですか。随分と短いですね」 「筆じゃなく鉛筆よ。東京に住んでいる親せきに送ってもらったの」 「鉛筆ですか。外国製の物ならうちの新聞社にもあります。便利な品ですよね」 「ええ、とっても描きやすいわ。私もずっと外国製の物を取り寄せて使っていたんだけど、ようやく日本製の鉛筆ができたっていう話を聞いて使ってみたくなったの」  刹那はそう言うとテーブルの上に紙を広げ「さっそくだけど、その方がどんなお顔だったか教えて下さる?」と亜蘭に言った。 「はい。確か顎がつき出していて、それから両目が少し下がっていました……」  亜蘭のぼんやりした記憶を聞きとりながらすらすらと鉛筆を走らせる刹那を見て、流介は芸術を志す人間はやはり気迫が違うなと唸った。 「できたわ。こんなところでよろしいかしら」  刹那は鉛筆を走らせる手を止めると、顔を上げ得意げに微笑んだ。時間にして僅か四半刻ほどである。驚くべき早業に流介は唸らざるを得なかった。 「見せて貰えますか」  刹那が紙を持ち上げ描いた絵をこちら側に向けた瞬間、流介は思わずあっと声を上げていた。  炭の如き色彩と掠れた線で描かれたその人物は、流介と早智を店先で脅した外国人の片割れだったのだ。 「この人です、牛乳屋の店先で僕と早智さんに帰れと迫った外国人は。 ……いやはや、お見事」 「あらそうなの? ……よかった、お望みに適う仕上がりになって」  刹那はそう言うと、離れたところから紅茶のカップを引き寄せた。ひっくり返すとまずいと思ったのだろう。 「しかしこれは一体、どういうことだろう。数年前、ハリストスにいた国彦さんを何かに誘い断られた男が、再び国彦さんの身の上に関わるとは」 「しかも国彦さん、今は料理店のお仕事が一番なわけよね。なぜ大事な仕事をお休みしてまで、昔断った人の所に行ったのかしら」 「どうも「卵」……つまり時計が関係しているとしか思えないな」 「時計を作っている、あるいは直している?」  流介と亜蘭がそれぞれ首を傾げていると、ふいに刹那が「この似顔絵の方に、直に伺ってみたらよろしいのではなくて?」と思いもよらぬ案を口にした。
/43ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加