追想1-⒆

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追想1-⒆

「香田さんの話ですか。……いい若者なのであまり詮索じみたことはしたことがないのですが」  かき入れ時をとうに過ぎ、客もまばらな『五灯軒』の隅で主の新屋総次郎(わかやそうじろう)は言った。 「雇うに当たって、香田さんの身の上のような物は聞いたのでしょうか?」 「一応、聞きました。機械が好きで時計職人を目指していたようですが、その……」 「なんです?」 「父親が元幕軍であったため、子供の頃は肩身の狭い思いをしたようです。ここでの腕を見る限り、手に職をつければそのようなことは誰も気にしないのですが……そもそも横浜に行ったうちの初代料理長、五灯も戊辰戦争の時は幕軍だったのです。しかしこれだけ時間が経ってしまえばあの頃のことをとやかく言う人はいません」 「まして今の匣館は外国人でにぎわう商都ですからね。古いも新しいも一緒くたでしよう」  流介はふと、榎本武揚公のことを思い出した。あれだけのことがありながら、今も常に新しいことに挑み続けている。過去も大切だが、大事なのはこれからの世で何を成すかなのだ。 「では、姿を消すような事情には、思い当たらないと?」 「そうですね。露西亜人との付き合いが多少、あるようなことは言っていましたので外国人相手の仕事を見つけたのかもしれません」 「なるほど、ありがとうございました」 「……ああそうだ、『卵』のことですが、一度「この辺りの生きた卵を扱うのは易しいけれど、さすがに『ファベルジェ』の卵は難しいな」と言っていたことがあります。意味はわからないのですが」 「……なるほど、『ファベルジェの卵』ですか。それで「いい卵」の謎が解けました」  天馬は大きく頷くと、立ちあがって主に深々と一礼した。 「天馬君『ファベルジュと言うのはいったい、何だい?」  聞き込みを終えて『五灯軒』を出た流介は、宝来町への道を辿りながら天馬に尋ねた。 「インペリアル・イースターエッグですよ。つまりそれが「いい」「卵」の正体です」 「い、いんぺりあ……なんだって?」 「くわしいことは『匣の館』についたら説明しますよ。先ほどの小麦倉庫といい、これは案外、奥が深そうだ」  困ったような口ぶりとは裏腹に、どこか張り切っているような天馬の振る舞いに流介は「まいったな、すっかり謎に魅入られたようだ」と胸の内でため息をついた。
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