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追想2-⑼
「ちょうどよかったわ。今日はパイという物を焼いてみましたの。材料が少ししか手に入らなかったから、小さな物が一枚きりですけど」
音原刹那の母、晶はそう言うとつやつやと輝く円盤型の焼き菓子が載った皿を置いた。
「やあ、これはいい匂いだ。甘いだけじゃなく食欲をそそる匂いですね」
流介が思ったままを口にすると、刹那が「良かったわねお母さん。これで未来のお得意さんを一人得られたわ」と悪戯っぽく言った。
「それにしても天馬君、ご友人の箱部さんは誘わなかったのかい?」
「誘いましたが、大勢の人に囲まれるのは恥ずかしいのでしょう。彼は内気な侍なのです」
「ねえ、どなたのことをおっしゃってるの?」
刹那に尋ねられ、流介は立ち回りの一件をかいつまんで話した。
「まあ、あの美しいお侍さんが?それは連れてきていただかなくては困りますわ」
紅三郎が天馬の友人と聞き、刹那が急にそわそわしだしたその時だった。
「お義姉さん、表を古めかしい装いのかたが行ったり来たりなさってるんだけど……」
部屋に入ってきた刹那の義理の叔母が、目に戸惑いの色を浮かべて言った。
「あらそう。もしかしたらお菓子を焼く匂いが気になったのかもしれないわね。お茶にご招待して差し上げたらどうかしら」
「でも……」
「待ってください。その男はおそらく僕の友人です。僕が声をかけて来ましょう」
「あら素敵。あのお侍さんがいらしてるの?」
「母屋の奥に隠れている建物に、洋菓子の匂いだけで辿りつけるのはあの男しかいません。 ……少々、愚図りはするでしょうが必ず来ますよ。曳舟の船頭である僕にお任せ下さい」
天馬はそう言うと。テーブルを離れ部屋の外に出て言った。
「ところで刹那さん、質屋がお父様の所に持ちこもうとした時計はどのくらい高価な物なんです?」
「父は美術品のことはよくわからないみたいだけど、時計だけでもしばらくは食べるのに困らないくらいの品だそうよ。露西亜の王様に差し上げる時計だったら、一生困らないほどの価値ではないかしら」
「なるほど。香田さんをさらって行こうとするわけだ」
流介がパイの皿を前に唸っていると、「離せ天馬。手などひかなくとも自分で歩けるわ」と聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「やあみなさん、連れて来ましたよ。この浪人風の男が洋菓子愛好家の箱部紅三郎君です」
「うるさい、勝手に紹介をするな。名乗りというのは本人が堂々とするものだ」
天馬に手を引かれて入ってきたのは口をへの字に曲げ、恥ずかしそうに目を伏せた紅三郎だった。
「まあ美しい男の人が二人も! 今日はなんていう素敵な日でしょう」
刹那は胸の前で手を組むと、流介とは明らかに異なる目でうっとりと天馬たちを見つめた。
「お客様も揃ったようなのでパイを切り分けますわ。皆さん、お席についていただけます?」
晶の声に、天馬を初めとする全員がおとなしくすとんと席に収まった。
「うん、こりゃあうまい。餅でも麩でもない、不思議な歯触りだ」
初めて口にするパイに流介が思わず感動の言葉を漏らすと、天馬が「どうしたんだいベニー、馬鹿に静かじゃないか」と言った。すると無心に菓子を食んでいた紅三郎がすくと立ち上がり「女将、この菓子は危険です」と言った。
「危険?」
「このかぐわしき香りが表通りにひとたび漏れれば、よこしまな者たちが店に押し寄せてくるに違いありません。よければ今日は私が外に立って見張りを務めさせていただきます」
「いえ、有り難い申し出ですがそこまでするような物では……」
「ベニー、そんなことをしてたらそこの通りから一生、動けないよ。おいしいと一言えば済むのだから、お茶でも飲んで肩の力を抜いたらどうだい」
眉を寄せて戸惑いを露わにしている晶に助け舟を出すように、天馬が言った。
「さあお菓子も頂いたところで、今から僕が考える香田さん奪還計画を披露しましょう」
天馬はそう言うと、生まれながらの貴族のように優雅な手つきで口元を拭った。
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