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 人には、眠れぬ夜というものがあります。    いくら酒を飲んでも、煙草を吸ってみても、本を読んでみても、まるで薄が風にでも吹かれているように、ざわざわと忙しない微かな音が耳の奥の方でして、そうして、ああ、またかと、  カーテンの隙間から漏れたおぼめく陽光をぼんやりと眺めては、夜を明かすまでに考えていたことのくだらなさに気持ちが滅入り、どうしようもなく憂鬱になって、  それが嫌で嫌で次の晩にはついつい深酒をして、その束の間、悪い夢を見て目を覚さますこともありますが、私はなんとか日常を笑って過ごそうと、必死になっているのです。  こんな話をしていると、決まって思い出されるのは太宰治の「おさん」にあるこんな言葉でしょう。  「ああ、悲しいひとたちは、よく笑う」  それを思い出して苦笑したりしている自分が滑稽と言いますか、どうにも嫌いではないようで、そんな眠れぬ夜も良いかと憂鬱の波に体を預けては、また布団の中で、ああ、くだらない、女のことばかりを考えているのです。  そんな時に、記憶の遡行は良くありません。無闇に過去を振り返ってはいけないのです。  それは、思い出というものよりも、過ちの多い私の記憶ですから、それは、そうなのでしょうが、生きていると、思い出も時がたてば過ちに変わることさえあることを知ると、恋は罪悪という意味も、薄々理解に近づいて来たような気もします。  人生の大半は、食う寝る恋する仕事するですから、女のことばかり考えてしまう時期もあって然るべきと、そう考えてみても良いのですが、そんな思案をしてみたところで、結末は大抵の場合、教訓にでもなれば大義といったもので、大して身にならないことばかりです。  あの時、ああしていれば、こんな言葉をかけていれば、あんな事をしなければ、私は幸せになれたのかもしれない。  そんな利己主義とも言える身勝手な妄想を、私はついつい寝床に付くとしているのです。  仮に、私が真っ当な人間であれば、そんな事はしないのかもしれません。    清く正しく嘘を言わず、己よりも他を重んじ、倹約をし、聡明で、寡黙である。そんな人間としての道徳的見本にでもなれば、私は幸せというものを、もっと早くから知ることが出来たのかも知れません。  「正しいひとは、苦しい筈が無い」  おさんの話にあったその言葉を思い出すと、私はいたたまれない気持ちになる反面、また恋をしてみたいという欲求に駆られます。  ああ、それなのに、今さら私に恋などを語る口があるはずもありません。それでも、眠れぬ夜に、そうして一人煩悶している日々の中で、私は幸福というものが何なのかを、僅かに垣間見た気がするのです。  しかし、書くということは、生きることの拒否に包まれていると、かのサルトルが言っているように、こうして自尊心をまるで両手で包み隠すような、そんな自慰文書のようなものを書いている時点で、私は、自身に対して大いに懐疑的になるのです。  きっと、私はまた深酒をして、こうしてくだらないものを書いたりしながら、自分を慰め、また女のことを考えて、翌る日にはひどく憂鬱になり、(きた)る眠れぬ夜を、こうしてまた独り苦笑しているのではないかと、私は、明日の自分を信用しきれないのです。  今宵も、ざわざわと耳の奥で音がします。  私の眠れぬ夜は、いつもこうしてふけていくばかりなのです。
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