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序章
人は恋情を前にした時、獣の側面が現れるらしい。
血肉を貪り食う狼。
狡猾に獲物を騙す狐。
庇護欲を駆り立てる兎。
好機を見定めて奇襲する猛禽。
獣の種類は様々だけれど、いずれも自分の心の空白を補うための栄養素として存在している。己の承認欲求さえ満たされれば、獲物のことなどどうでもいい。ある意味この獣の側面こそ人間の本質だと言えるのかもしれない。
判るのだ、幼少期から母が性欲を振りかざす様を見てきたから。
取っ替え引っ替えで男を呼んで、醜い感情を焦がしながらお互いの大事なものを肉体と共に喰らい尽くす。狂気に満ちたその光景が、今でも傷となって胸の奥深くまで刻まれている。
故に昔から色恋沙汰が大の苦手だった。そう信じていた。だけど、結局僕も母の彼氏候補たちと何ら変わりないみたいだ。
「……へえぇ。普段は強がってるくせに割と可愛いところあるんだね。ぶっちゃけ癖になっちゃいそう」
今でも脳の裏で、猫撫で声の先輩が舌なめずりしている。
初めて来る家。初めて入る部屋。初めて嗅いだ匂いに包まれながら、僕は先輩に押し倒されていた。味わうにはあまりにも早かった感覚が余韻として全身に染み渡る。呆然とした意識の中で、お互いの呼吸と窓に打ち付ける雨粒の音しか聞き取れなかった。
口内に塗り尽くされた、先輩がいつも舐めていた金平糖の後味。その端で涙の塩味がつんと突き刺さり、不意に自分が情けなくなってくる。
その日、僕は肉体の子供の部分を貪り食われた。獲物を猫撫で声で誘い込み、自ら近づいてきたところで飛びかかる。
彼女が内包する獣は──猫だった。
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