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◇  美術部には化け猫が潜んでいる──高校入学早々、中学の頃から仲の良かった先輩からそう忠告された。  男の部員どもと五股して、部を崩壊寸前まで追いやった色情狂。関わったら平穏な学校生活とは無縁になる。ここまで綿密に忠告を受けながら、僕の足は美術室へと真っ直ぐ向かっていた。カリギュラ効果、とは少し違う。絵を描くことしか取り柄のない、そんな僕の数少ない居場所を確保したかったのだ。  徐ろに階段を上がり、淡泊な雰囲気の廊下を進む。美術室の引き戸は何故か開けっ放しになっており、油絵具の匂いが廊下からでも感じ取れる。周囲は、誰かが悪戯に切り捨てたのだと思うぐらい静かだった。  はやる気持ちを抑えながら、僕は教室の中を覗こうとする。 「あれ、お客さん? 珍しいなぁ」  心臓が口から飛び出しそうになった。急な女性の声に思わず後退りしてしまう。こっちはまだ相手の姿を見てないのに。無意識につま先がはみ出ていたのだろうか。 「あはは、ごめんごめん。びっくりしちゃった? 最近意識が過剰になってて、ちょっとした気配でも読み取っちゃうんだ。だから気にしないで」  意識が過剰──本当に猫みたいだな、なんて考えながら恐る恐る教室の中へと足を踏み入れる。より一層鮮明になる絵具や粘土の香り。画材が無造作に置かれたその室内で、一人キャンバスに向き合った女性の後ろ姿がぽつんと視界の中心に入った。  僕が凝視しても尚、振り返ってくる様子はない。  一本に纏めて結われた長髪が、後頭部で左右に揺れていた。 「せっかく来てくれたのにごめんねぇ。今いいところだから目を離せなくて」 「ああ、いえ。……その」 「私が噂の『化け猫』か、って聞こうとしたでしょ」  ぎょっとして両肩が跳ね上がる。  この人、エスパーか何かか。 「図星、ってとこかな。まあ大体判るよ。ここに来る物好きさんなんて美術の先生か、噂を聞きつけた後輩ちゃんの二択だもん」  けろりと答えるその女性は、自分の体躯の二回りはある巨大なキャンバスに色彩を付け足していく。主題が身体に隠れていて判らないものの、背景となるイチョウ並木の黄色がぐっと意識を引き込んでくる。  何だろう。絵の上手さもさることながら、込められた感情が段違いに強い気がする。 「何を、描いてるんですか」  気付けば口から漏れていたその質問に彼女は、いひひひ、と笑ってこちらに振り返る。童顔に、妖艶っぽい空気を醸し出す目元。予想に反して顔立ちが清純な感じで、不覚にもどきっとしてしまう。 「なあに? 気になる? ホント、君みたいなお客さんは久しぶりだなぁ」  少し高くなった声音で言って、その人は椅子を横にずらし、絵画の全容を僕に見せつけてくる。休む間もなく、二度目の衝撃が全身に響き渡る。それはもう、一瞬息をすることも忘れるほど激しい一撃。  絵の中心にいたのは、ベンチの上に佇む一匹の猫だった。  横に敷かれたコートを踏みつけ、凛とした両目でこちらを見据えてくるその黒猫は、良い意味で動物らしさを感じられない。あたかも人が憑依したようだった。猫の意識を乗っ取った人間が作品を観る人に、もしくは作者自身に何かを訴えかけていた。 「ごめんね。独学でやってるからとても人前で見せられるものじゃないけど」  魂を掌握された僕を見てか、女性は満足そうに微笑んだ。 「最近、趣味でずっとこれを描いてるんだ。美術部は廃部になったけど、先生から特別に許可を貰って、こうして一人でここに居座って。そうしないと何だか落ち着かないんだ」 「……すごい、です」 「へえぇ、君もこういうの解るタチなんだ。ありがと、そう言ってくれるだけでちょっとだけ救われる、かな」  ぐっと伸びをして、彼女は立ち上がった。かと思うと、一歩二歩とこちらに近づいてきて僕の顔をじっと覗き込む。ふわりと浮いた髪の毛先からシャンプーの優しい匂いが漂ってくる。 「ねえ。君、絵描くことに興味ない?」  悪戯っぽいその笑みを見て、微かに動悸が早くなる。 「実はあと一人新入生が入れば、美術部を立て直すことができるんだよね。そしたら私は、堂々とこの絵と向き合うことができる。ね? 私の絵を無料で見ちゃった代償として、協力する気ない?」  思わず固唾を呑んだ。恐らく噂を聞きつけた一般的な人間ならば、ここで逃げる選択をするだろう。この誘いに乗れば、間違いなく骨の髄まで吸い尽くされる。  だから、ここで彼女の誘いに乗った僕は、既に異端者となっていた。  この時僕が魅入られたのは絵画だったのか、はたまた獣の側面を醸し出した彼女の表情だったか。その真相は今でも判らない。どちらにせよこの出会いを境に、僕の奇妙な学校生活が始まってしまったのだ。  あの『化け猫』とつるんでいる、というレッテルのせいで友達は出来なかった。けど悪い気はしなかった。先輩との日常が、その空白を埋めるにはあまりにも十分すぎたからだ。  美術室に入ればいつも先輩が「やっほー」と声をかけてくれたり、授業中の愚痴とかを話したりしてくれる。たまに揶揄ってきたりもするけど無駄な詮索はしてこないし、お互いに集中モードになれば心地良い静寂が室内を包み込む。むしろ居心地が良かった。  あの黒猫の絵は夏のうちに完成して、既に別の絵にすり替わっていた。  代わりに先輩が描いているのは、窓辺に寝そべり星を見つめる黒猫。背景は違うものの主役は前回と変わらない。どうして猫の絵ばかり描くのだろう。その疑問を口にする勇気を僕は持ち合わせていなかった。訊くべきではないことを本能で悟った。  ただ、確実に言えることが一つだけある。  黒猫を描いている時の先輩は、何故か辛そうな表情をしていた。
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