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◇
短いようで長い回想が、古い電球の如く脳内で明滅する。
苦虫を噛みしめる想いで僕は先輩を見やる。が、文句を言おうとしたその喉が一瞬にして引き締まった。
間もなく頬に温かい雫が落ちる。どういうわけか先輩も泣いていた。悲痛の色を顔に滲ませて、それでも普段と同じような笑顔を無理矢理装っていた。
「──ごめんね、乾くん」
謝罪の意味を訊くより先に唇を塞がれた。舌が痺れるほどの甘味。これが本当に最後のスキンシップになることを察し、目を瞑るのと共に色々な感情をしまい込んだ。
どんなに深く謝られても、どんなに甘い口づけをされても、決して僕の心が満たされることはない。結局、どれだけあがこうと先輩の一番にはなれないのだ。ただ彼女の愛欲と寂しさを補完するだけの間に合わせだけ。
そう自覚しているはずなのにこんなにも胸が痛むのは何故なんだろう。
灰色の天井を見つめて、今や人形にも等しい僕は呆然と考える。
思えばこの恋を自覚したのも、最悪のタイミングだった。
◇
その日は銀杏の匂いが鼻をつく、秋の始まりの時期だった。
初夏ぶりの学ランを羽織りながら、僕は冷え切った廊下を早足で進んでいた。道中に同級生から鋭い視線を感じたものの、次の絵の構図を考えるので忙しく気にも留めなかった。
いつもの階段。いつもの一本道。代わり映えしない光景を横目に流していくうちに、いつしか美術室が目前まで迫っていた。もう先輩は着いているだろうか、そう考えながら扉を引こうとしたその時。
「しつこいんだよ! この色情魔が!」
室内から怒鳴り声と、緊迫した空気が伝わってくる。
声の主は明らかに男だった。その怒号の裏で微かに鼻の啜る音が聞こえてくる。一瞬耳を疑ったが、恐らく先輩だ。普段感情を露わにしない先輩が、扉の向こうで泣いている。
「そんなこと言わないでよ……ねえ、もう一回やり直そう? 今度は貴方の望んだ通りにするから。ちゃんと言うこと聞くから!」
「もう勘弁してくれよ! お前とはもう決別したんだ。よりを戻す気も毛頭ない。頼むから、もう二度と話しかけないでくれ」
男の切実そうな声と、ずかずかと近づいてくる足音。危険を感じて後退りした次の瞬間、目の前で引き戸が乱暴に開け放たれる。
一瞬だけ、彼と目が合った。日焼けの濃い淡泊な顔立ち。初対面であることは間違いないはずなのに、そこから漂う雰囲気に何故か異様な感覚を覚える。まるで魚の骨が喉につっかえたような、すっきりしない感覚。その正体を掴むより先に、男は苛立たしげに立ち去ってしまった。
嵐の如く過ぎ去っていく喧騒に追いつけず、呆然とその場に立ち尽くしてしまう。しんと廊下に染み渡る静寂。普段なら心地いいはずの空気が今では噛みしめる度に虫の味がする。それでも妙な胸騒ぎが身体を突き動かして、恐る恐る美術室へと足を踏み入れた。
先輩は画材やイーゼルが散乱した教室の隅に座り込み、力なく俯いていた。
「……ごめんね。かっこ悪いとこ見せちゃったよね」
か細く、頼りない声が静かに木霊する。
「私、ホント駄目な女だな。とっくの昔に愛想尽かれたのは自覚してるし、全部忘れようと色々と努力した。それなのに、駄目だな。どう頑張ってもあの人のこと忘れられない」
胸が締め付けられ、耐えられず目線を逸らした先で、時間が止まった。
先輩の座り込むその傍らに、一枚のキャンバスが横たわっていた。ここ最近、彼女が制作に勤しんでいる窓辺の猫の絵。普段と一切変わらないその作品を見た刹那、廊下での妙な感覚が一挙に呼び起こされた。
「ねえ、乾くん。私、どうすればいいかな。色んなことを試してみたの。だけど、何を試してみても心が空っぽなまんまで。ねえ、どうしよう。どうすれば救われるのかなぁ」
段々と声を震わせた末に、先輩はわっと声を上げて泣き出した。両手で顔を隠し、肩を上下に揺らしながら。そんな緊迫した空気の中ですら、キャンバスの黒猫はそっぽを向き続けていた。
無慈悲な──というよりも既に愛想を尽かしたような後ろ姿は、さっき出て行った男の人と雰囲気が酷似していた。
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