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 ◇  行為が終わった以後、先輩は毛布にくるまりながら目を窓から離さずにいた。外は未だ際限なく雨が降り注いでいる。その絶え間ない暴力的な音が、今では傷だらけの心を癒してくれている。  ベッドの下に落ちていた制服を僕は無言で拾い上げる。たまに視界に入る先輩の白い背中に、何故か心が揺れ動く。そんな単純な自分が腹の底から恨めしかった。  あの時、羨ましいと思ってしまった。  先輩を感情的にさせたあの男のことが。  後になって教えてもらえた。彼はいわゆる先輩の元彼だった。彼女曰く、二年前に別れたけども未だ脳に焼き付いているという呪いの発端。猫の絵に執着しているのも、美術部員と五股したのも、全部愛人の喪失を埋め合わせるためのものだった。  あの人は猫みたいな人だった──先輩は元彼の男をそう称していた。飄々として掴みどころがないけど、気を許した人にだけ柔らかい表情を見せる。そういうところが愛おしくて仕方なかった、と。  猫と猫。凄くお似合いだと思う。先輩が猫撫で声で獲物を誘うのなら、あの男は表面と裏とのギャップでとことん沼らせる。結末さえ違えば、きっとお互いに与え合うカップルになれたのではないか。どんなに結末を入れ替えようと、僕がそこに付け入る余白などないのだろう。  部屋を出てしまおうと、僕はベッドから立ち上がり鞄に手をかける。背後から「待って」と弱々しい声がかかったのは丁度その時だった。 「乾くん……ありがとね」  途端に頭が真っ白になって、思わずその場で硬直してしまう。 「あなたのお陰で私、今も絵を描くのを続けられてる。ほら、乾くんが初めて美術室に来たあの日、私の猫の絵を褒めてくれたでしょ? 本来ならあれを最後に絵描くの辞めようかと思ってた。でも、あなたが引き留めてくれたお陰で、唯一の生き甲斐を手放すに済んだの。……本当にありがとう」  言葉の余韻と共に静寂が室内を揺蕩う。  奥歯がぎりっと鳴った。そんなの反則だ。精神が擦り減ったところを狙って、甘い言葉をかけてくる。僕があと少し盲目だったなら、きっとすぐに踵を返して先輩のもとへ飛びかかっていたかもしれない。それこそフェロモンで理性をやられた小蠅たちのように。  そこまでしてくれるのなら、背後から抱きしめてでも僕を引き留めてくれよ。僕のことが一番だと、元彼の時みたいに感情を爆発させてくれよ。 「──さようなら」  我ながら不躾に、そして逃げるように先輩の部屋を後にした。足音と雫の音だけが家内に木霊する。結局、最後まで彼女が引き留めてくれることはなかった。  乱雑に家のドアを開け放ち、雨の帳へと身を投げ出す。無我夢中にただ走る。とにかく先輩から距離を取りたかった。脱兎の如く地面を蹴り、駆けて、駆ける。そうして心臓が、どくん、と一度波打った瞬間、不意に脳内が白で染まる。  足が止まり、息が上がる。髪の毛先から滝のように雫が落ち、全身を嫌な寒気が伝う。雨粒が痛い。雨音がうるさい。どす黒い泥の鎧が強引に洗い流されて、見えてはいけないものが露わになって、痛みが染みる。  そうか、僕──先輩のことが好きなんだ。  そう自覚した途端に、鼻の奥がつんと染みた。冷たい真水の中に、温かく塩辛いものが混ざり込む。号哭すら豪雨にかき消される。通行人の影すら帳の奥へと引き込まれていく。涙が止まらない。涙が、止まらない。  次の日を境に、先輩は美術室に──いや、学校にすら来なくなった。  口を開けば花が咲く、そんな彼女が居なくなった途端、室内はぽつんと寂しくなった。あの人の居た名残はただ一つ、まだ製作途中だった窓辺の猫の絵だけ。それが廊下から差し込む夕陽と埃を纏いながら、教室の隅に佇んでいる。  飄々とした黒猫の後ろ姿。毛並みの一本一本すら記憶する想いで、僕は呆然と見続けていた。が、急にぷつんと意識が途絶えて、何かを切り裂く音が耳を劈く。  我に返った頃には、呼吸が乱れていた。  すぐ目の前には、乱雑に裂かれ床に倒れた猫の絵画。ふと右手を見ると、パレットナイフの切っ先が銀色に閃いている。漠然とした自覚が脳内で揺らぎ、鳥肌が立つ。僕が猫の背中を斬った。自分でやるはずないことを、間違いなく僕はしでかしている。  途端に怖くなって、自分の頬を指で触れる。我ながら信じられない。ほぼ死体と化した猫の惨状を前に、僕は笑っていた。
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