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爽やかな匂いのするワイシャツを着て、夫は玄関へと向かう。
わたしは良き妻として、笑顔でそれを見送る。
「今日は接待ないから、8時には帰って来れると思う」
夫は毎日、帰る時間を教えてくれる。そしてきっちりその時間に帰ってくる。
「わかった。頑張ってね」
「うん。ありがとう」
毎日同じ会話。そして欠かさない、行ってきますのキス。
夫がわたしの後頭部に優しく手を添えて、唇と唇をそっと合わせる。その一瞬の間に、とてつもなく温かい彼の愛を感じる。
わたしは、確実に愛されている。
玄関を出たあと、廊下の角を曲がるまで、手を振って見送る。
そしてその姿が見えなくなったら、一人で部屋に戻る。
「はぁぁぁあ〜」
大きすぎる息を吐き、ソファーの上にどかっと座って両手両足を伸ばす。
この開放感がたまらない。
さぁ、ここからがわたしの自由時間だ。
夫のことは、嫌いじゃない。もはや好きだ。
でもその好きは、昔から漫画とかドラマで見てきた“恋”とか“愛”とは違うような気がしていて。
「その人のためなら死ねると思えるくらいの人と結婚しなさい」とママは言った。
でもそんなの、絶対無理だ。
他人のために死ねるだなんて、馬鹿げている。
そんな風に思えるような相手と出会うことなんて、きっとありえない。
少なくともわたしは、夫のためには死ねない。
ならばどうして結婚したのかと聞かれると「なんとなく」としか答えようがない。
ただある程度の年齢になって、周りもどんどん結婚したり出産していって、わたしもそろそろしたいなーなんて思っていたちょうどそのとき、彼が言い寄ってきたからだ。
とっても優しくて、マメで、全てを包み込んでくれるような安心感のある男の人。
見た目だって悪くない。身長もわたしより25センチ高くてちょうどいい。
良い会社に勤めていて、収入だって安定している。
だから、結婚しない理由がなかった。
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