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第1章 幼務所 ③
「知ってはいると思うが、この幼務所はあくまでも悪事を働いたロリババアを更生させる施設だ」
「それは……知ってます。知ってました」
「しかし徐々にこの幼務所の中で力を持つロリババアが自身の派閥を作り争い、ともてじゃないが更生とは程遠い環境になりつつある」
もちろん、と続ける彼。
「その乱れた秩序を是正するために毎年多くの職員が採用され、対応に当たっているが残念ながらロリババアの方が何枚も上手だ。入っては減り、入っては減りの繰り返し」
私は朝の講堂内を思い出します。
あの屈強な男の人たちがどんどん辞めていくのでしょうか。
やはり朝と同様、想像がつきません。
「そんな状況下で業を煮やした上層部が白羽の矢を立てたのが俺らというわけだ」
「あの俺らと仰いますが私は小学校教員を目指していただけのただの成人女性ですし、これといった取り柄もなくて、その……」
「そんなことはない。桜子君には桜子君にしかできないことがあるからここにいるんだ」
「私にしかできないこと……」
私はその言葉に少しだけ浮かれてしまいました。
これまでの人生において全力をかけて学んできたことを否定された私。
そんな私にしかできないことがある。
そう言われてうれしくないわけがありません。
ちょろい女です。
「あのもしそうであるのなら私、頑張ってみます」
「その意気だ。何事も前向き、全力。それが人生を豊かにするコツだ」
白い歯を見せながら笑う東吾さん。
最初の印象はあれだったけれども、いい人なのかもしれない。
そう思えました。
この時までは。いえ、この後も悪い人ではないことには変わりないのですが、どうにも世間一般的にいい人のラインにいるかと言われればそうではなくなってしまうのです。
まあまあまあまあ、それはさておきまして、何となく二人の間で行われた情報共有が柔らかな雰囲気を作り出していきました。
しかしそんな雰囲気もすぐに打ち崩されてしまうのです。
「危ない!」
東吾さんは突然私の両腕を掴み、自身に引き寄せたのです。
急に座標軸の動いた私はその意味を理解できるわけも、抵抗できるわけもなく、ただただ彼の胸に飛び込んでしまいました。
「とととととととととと、東吾さん、何を?」
テンパってしまった私。
慌てて彼の顔を見ますが、彼は私などには目もくれず私が元居た場所を見やります。
「ちっ。もう少しだったのに」
その視線の先から聞こえてきたであろう甲高い声。
私はその声につられるようにして後ろを振り返ります。
そこにあったのは宙に浮く小さな光。
そして目を凝らしてみるとその光の中には掌サイズの何かが存在していました。
「早速来たか」
東吾さんは私の両腕から手を離すと、そのまま私を庇う様にして一歩前に出ました。
「ふん、毎年毎年頭数だけ揃えれば何とかなると思ってるんだからあんたらもかわいそうな立ち位置よね。所詮は使い捨て。下手な鉄砲数打ちゃ当たる。そんな発想しかできないから現状があるのよね」
光は収束し、姿が露わになる何か。
そうそれはまるでピーターパンに出てくるティンカーベルのようでした。
「妖精?」
「そうだ。妖精だ。俗にフェアリーやピクシーとも呼ばれる類のものだな」
東吾さんは言う。
「人外の中でも最も小さい部類に入る。だが小さいからと言って油断するな。基本的にここに収容されているのは齢が百歳を超えるものばかりだ。見た目が小さくても若くても狡猾さは人間の想像を超えてくる」
「ふふふ。わかってるじゃない。そしてもう遅いのよ」
妖精は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、その小さな小さな指を鳴らしました。
それと同時に私の右手の甲に鋭い痛みが走ります。
「いたっ!」
見るとうっすらと血が滲んでいるではないですか。
そして甲の近くには血を軽やかに乗せて光る細い細い糸が見えます。
「桜子君を背後から襲い、わざと外したのはこのためか」
東吾さんの顔付近にもその細い糸が通っているようで、左の頬に血が滲んでいます。
しかし彼は痛みに顔を歪めることのせずにただ目の前の妖精を睨みつけます。
「ご名答。だって私、いえ、私たちって力弱いじゃない。あんたの言う狡猾さがないとこの中じゃ生き残れないのよ。あ、動かない方がいいわよ。この糸、私たちの羽から作り出してるんだけどね、その強度と切れ味は蜘蛛の糸の比じゃないから」
妖精の言葉に反応するようにして、周囲の物陰から似たような体躯の妖精が何十人と出てくるではありませんか。
色や形はやや違えど、その顔に携えた悪意はどれも同じ。
そして彼女らの手には細い糸が握られていました。
「別に私たちも取って食おうってわけじゃないの。ただこの幼務所内で楽しいことしたいだけなのよ。だってシャバは悪いことしたらダメでしょ? でもね、ここって悪いことしても誰も咎めないの。わかる? ここは悪いことしたい人外にとってはパラダイスなの」
言って、リーダー格妖精はさらにぱちんと指を鳴らしました。
嫌な予感しかしません。
そんな嫌な予感はコンマ数秒後に現実のものとなります。
「うひっ!」
徒党を組んだ妖精たちは一気に手に持った細い糸を引いたのです。
もちろん糸はどこかを引っ張ればどこかが締まります。
そして今回の締まりの終着点は私たち二人。
迫りくる糸。
死ぬとき走馬灯が見えるなんて嘘です。
世間は嘘ばかりです。
だって私の目に映りこむのはゆっくりとゆっくりと私たちの命を奪うために距離を詰める妖精の武器。
走馬灯くらい見せてください。
「甘いな」
そんな私の焦りとは全くもって対照的な声が耳に届きます。
次の瞬間、糸が全てまるでミキサーにかけられたかのように粉々にちぎれてしまったのです。
いや、細かすぎて私の鼻に入ってきてます。
やめて。
「君らの敗因は俺をその辺の有象無象だと思い込んだことだ」
東吾さんはいつの間にか手にバタフライナイフを持っていました。
陽光に反射するそれはとても頼もしく見えたのです。
それでまさか先ほどの糸を全て切り落としたのでしょうか?
確か妖精は蜘蛛の糸より強度あるって言ってたような気がするのですが。
「あんた、何者?」
小さな妖精たちの間に動揺が走ります。
先ほどまで統率を取れた動きをしていたはずの妖精たちは焦りを口にし、ホバリングは揺らぎ、視線はあちこちに飛散します。
「この程度で動揺するとはお里が知れる」
東吾さんは妖精たちの間をまるで氷上を滑走するフィギュアスケートの選手のような滑らかさですり抜け、あっという間にリーダー格妖精のもとに辿り着きます。
「ひっ……」
「これからは悪さするなとは言わないが、こちらにちょっかいを出すのはやめておけ」
妖精の体躯よりも遥かに大きいはずのナイフ。
振りかざせば体ごとどこかに吹き飛ばしてしまいそうなサイズ感。
しかし、リーダー格妖精の首に突き付けられた刃先は彼女の首だけを確実に、血管の一本一本を、筋肉の一束一束を、骨の一本一本を丁寧に切り裂いてしまうほどの鋭利な存在感を放っていました。
「お、覚えときなさいよ!」
捨て台詞を吐きながら、妖精たちは去っていきました。
私はあっという間の出来事、しかしあり得ないほど密度の高い時間を過ごしたせいかすっかり腰砕けになってしまいました。
太陽熱を取り込んだ地面の熱がお尻にじんわりと伝わってきます。
「大丈夫か?」
東吾さんは心配そうな顔をしながらこちらに手を差し出してくれました。
私はその手を掴み立ち上がります。
「あ、ありがとうございます」
「なに、初めてのことで驚いただろう。ここではああいったことが日常茶飯事だ」
東吾さんは妖精たちが逃げていった先に視線を送ります。
「だが心配はいらない。君には君の可能性がある。それをここで見つければいい。私はそれをサポートしようじゃないか。先ほども言ったように、君には君にしかできないことがあるからここにいるんだ」
再び彼は白い歯を見せながら笑いました。
その曇りが一点もない顔に私の凝り固まってしまった心が少しだけ柔らかくなるのがわかりました。
危ない経験をしたにも関わらず、心はどこか熱を帯びてしまっていました。
「はい! こちらこそよろしくお願いします」
うんうんと嬉しそうに頷く東吾さん。
その笑顔を見るとこちらも嬉しくなってしまいます。
「こちらこそよろしく頼む。ちなみになんだが桜子君の人生の目標はなんだ? 目標のある人生が素晴らしいことは既に先人たちが証明済みだが、私は個人として君の事を知っておきたい」
「私の目標ですか……」
小学校教員。
それが私の人生の目標でもあり生きる意味でもあります。
採用に落ち、全く関係のない仕事を始めた今でもそれは変わりません。
いえ、変わっていなかったのだけれど、そこから目をそらしてしまっていました。
東吾さんの真っすぐな言葉と目に私も真っすぐに答えます。
「私の人生の目標は小学校教員になることです。子どもたちに寄り添い、子どもたちの可能性を、夢を、希望をどこまでも伸ばして上げられるような小学校教員になるつもりです」
「そうか。小学校教員か。素晴らしい目標だな。ここでの仕事はそれとは違うかもしれないが、人生で役に立たない経験などない。きっと桜子君が将来小学校教員になったとき、ここでの経験も生かせることだろう」
「そうですね。私、未熟ですし、さっき見たいに東吾さんに助けてもらうこともいっぱいあるかもしれませんが、一生懸命頑張ります!」
「頼もしい限りだ」
私の肩を東吾さんは優しく、しかしそれでいて力強く叩きます。
その振動が心地いいこと。
「さて、このまま幼務所内を見て回ろうと思うのだが、それでいいか?」
「はい! もちろんです」
「よし行こう」
私たちは先ほどよりも確実に近づいた心の距離に居心地の良さを感じながら歩き始めました。
「あ、ちなみに東吾さんの目標は何ですか?」
東吾さんは振り返りながら、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの満面の笑みで答えてくれました。
「俺の目標は、この世に存在する全てのロリババアとセ●クスをすることだ」
「はい?」
突如として落とされた爆弾は行き先が決められていなかったようで、ただただ私の脳内の至るところで混乱を生じさせるのでした。
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