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その日から陽美乃はルーチェの店を手伝った。最初のうちこそメニューを覚えたり、正しく運んだりするのに苦戦していたが、すぐに慣れた。ルーチェが料理に専念できるようになったことで料理や飲み物が早く出てくるようになったことを客も喜んでくれたようだ。
そして、これまで空いていたティータイムに若い女性客が増え、店はますます繁盛している。
「彼女ら、君が目当てなんだろうけど、たぶらかさないでよ?」
店を閉めた後、ふいと言われて陽美乃はくすりと笑う。
「わきまえておる。ビーノは純粋で初心じゃからのぅ」
陽美乃がくすくす笑うと、ルーチェはため息をついた。
「店での君、全然違うから本当びっくりする」
陽美乃は肩をすくめて狐の姿に戻るとルーチェの膝に入る。店に立つ陽美乃は自分でも言った通り純粋で初心な若者だ。料理を出すときに客と手が触れただけで顔を赤らめ、うつむきがちに言葉を紡ぐ。おずおずとはにかむように笑い、かわいらしい丸文字を書く。普段の横柄な態度とは似ても似つかない。
「じゃから、妖狐は欺くのが生業と言っておろう。ルーチェは侮っておるが、わしは九尾。妖狐の中でも別格なのだぞ?」
腹をもふもふと撫でられて体をくふんとくねらせた陽美乃を見てルーチェは曖昧に笑う。この姿を見ているととてもそうは思えない。
「最近、僕に撫でられるとき、まるきり狐だから信じられないんだよね……」
「ぬしが撫でたがるから付きおうてやっておるに、とんだ言い草だの」
陽美乃はころころ笑ってルーチェの手を甘噛みする。
「ごめんごめん。君のおかげで儲かっているのは事実なのにね」
「手術できるくらいか?」
ルーチェの右目はできる限り早く手術の必要があるのだという。けれど、そのための資金が彼にはなかった。
「あ、うん……あと少しかな……」
曖昧な返事に陽美乃はからだをくるりと反転させる。
「いかがしたのじゃ」
「手術、怖いんだ。だいぶ進んできちゃったから五分五分だって言われて……このままでも失明するなら賭けた方がいいってわかってても怖くて……ヒビノのおかげでお金の目途がついたら、急に……」
「そうか」
陽美乃はルーチェと同じくらいに身体を大きくする。
「ぎゅっとさせてやろう。特別じゃ」
ルーチェは複雑そうに笑って陽美乃の大きな身体に抱きついた。
「いつも以上にふわふわであったかいね」
「そうであろう。ルーチェ、初めてのことが怖いのは当然だ。わしが大丈夫と言ってやるのは簡単だが、それでぬしの気持ちが変わるわけでもあるまい。のう、ルーチェ、わしの尾は何本ある?」
「え? 九本でしょ?」
ゆらゆらと揺れる太い尾をルーチェの手がふわりと撫でる。
「かつては一本じゃった。最初二本になったときは病気かはたまたもう死ぬのかと焦りもしたが、なかなかどうして死なぬどころか死ななくなった。尾が五本になるころには増えることにも慣れた。初めてのことは怖いこと。当然じゃ。失敗しても放っておいても一緒ならさっさと手術をせい。ぬしが動けぬ間、飲み物だけでも出して店は開けてやるでの」
腹に顔をうずめていたルーチェがくすりと笑った。
「ヒビノはやさしいね」
「誰にでもやさしいわけではないわ。怖いならそばにいてやる」
「ありがと。少し落ち着いた。今夜はこのまま寝てくれない?」
「しょうのない男じゃ。寝入ったら元に戻るとは思うが」
「それでもいいよ」
以前は眠っても変化したままでいられたが、今は眠ってしまうと元に戻ってしまう。それだけ力が落ちているのだろうと思うと少し複雑だった。かつて漲っていた力はもはや失われ、取り戻すには長い年月が必要になるだろう。
陽美乃はルーチェのベッドにもぐりこむ。ルーチェの小さな家にはベッドが一つしかない。だからいつも一つのベッドで眠っている。陽美乃は眠る前に元に戻るようにしているから何ら問題はなかった。
ルーチェにもふりと抱きつかれた。今日はさすがにベッドが狭い。
「今日はなにもかけなくていいくらいヒビノがあったかいね」
「大きくなっているからの。狭うないか?」
「大、丈夫……」
ルーチェはすぐにすうすうと寝息を立て始めた。彼はいつも疲れているからベッドに入るとすぐに眠ってしまう。陽美乃は太く長い尾でルーチェを包み込んで目を閉じた。
ここが心地いいから出ていきたくないわけではない。ただ肉がおいしいだけと思いたい陽美乃だった。
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