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翌月、金の目途が付き、ルーチェの手術が行われた。当日はそばにいてやったが、翌日から、陽美乃は一人で店を開けた。ルーチェは数日入院しなければならないため、店の心配ばかりする彼の代わりに店を開けたのだった。飲み物のみの提供だが、それでもビーノ目当ての客がそれなりに来た。この日のために飲み物の作り方をきっちり習った甲斐があるというものだ。
「ビーノちゃん、ルーチェさんはどうしたの?」
常連の一人に声を掛けられ、陽美乃は目を伏せながら口を開く。
「あ、えと、目の手術ができたので入院してるんです。二週間くらいで復帰するって言ってました」
「そうかい。よくなるといいね」
「はい、ボクもそう思います」
その客はいつも通りコーヒーを買い、また来ると言い残して去って行った。そんなやり取りを数回して、ルーチェは慕われているのだなとぼんやり思う。この店を開いて三年と言っていた。若くしてこれだけの地盤を築き、一人で切り盛りしているのだから立派だと思う。評判を落とさず、店を開けるだけの価値がある稼ぎを得ようと陽美乃は気を引き締める。飲み物しか出せない以上、タイミングを見計らって早めに閉めるのも重要だ。
そもそも酒を出さず、軽食がメインのカフェだからそれほど遅くまで開いていること自体ないのだが。見舞いに行ってやりたい気持ちもある。包帯が取れるまで手術の結果が確定しないせいか、ルーチェは不安そうだった。
彼には身内がいないわけではないようだが、心配をかけたくないといって呼んでいなかった。目を悪くしたことさえ黙っているらしい。人が好過ぎるというべきか、自分を大切にしていないというべきかはわからない。
その分、状況によっては自分に甘えてくるルーチェがかわいく思わないとは言い難い陽美乃だった。しかし、自分の家族とももう少し密にやり取りしてほしいとも思わないわけではない。妖怪である陽美乃がとやかく言えた話ではないが、心配なのも事実だった。思わずふうとため息をつく。
「ビーノちゃん、どうしたの? ため息なんてついちゃって」
女性客に声を掛けられて、陽美乃は目を伏せながらおずおずと口を開く。
「ルーチェのことが心配なんです」
「きっと大丈夫よ、ね? ビーノちゃん、元気出して」
「はい」
目じりに浮かべた涙を手で拭う。本当に泣いているわけではなかったが、ビーノは繊細で傷つきやすい青年ということにしているからそうした。ルーチェが心配なのは本心だが。
「心配させてごめんなさい。カフェオーレですよね?」
「ええ、そうよ。覚えててくれてうれしいわ」
「いつも来てくれるから」
健気に笑って見せると客は嬉しそうに笑い、チップを多めにくれた。チップもすべてレジに放り込む。売り上げよりチップの方が多いのは気のせいではない。
陽美乃にとって金はそれほど価値がない。ルーチェのために必要だからできるだけ稼ぐようにしているだけだ。この程度のことは造作もなく、たぶらかすというほどのことでもない。
夕方、客がいなくなったのを見計らって店を閉め、病院に向かう。病院はそう遠くないが、人のふりをして長く歩くのは得意ではない。けれど、おかしな噂を立てるわけにはいかないし、不義理をするつもりもない。
大部屋の病室でルーチェはぼんやりと外を見ていた。することがなくて退屈なのだろう。
「ルーチェ」
「あ、ビーノ、来てくれたんだ」
振り返って嬉しそうに笑ったルーチェは右目に包帯を巻かれているものの元気そうだった。
「来ないはずがないです。調子はいかがですか?」
「悪くはないよ。まだ痛いけど、ビーノが来てくれたから元気になれそう。いつもみたいにできたら最高だけど、そういうわけにもいかないもんね」
彼は至極残念そうにため息をつく。大部屋のベッドはいくつか埋まっていて、いくらカーテンを閉めても陽美乃が狐に戻ればわかってしまうだろう。
「早く退院するしかないですね」
「そうだね。今のところ順調だから予定通り明後日には退院できるらしいよ」
「そうですか。お店の方、ボク一人でも半分くらいはお客さん来てくれているので安心してくださいね。みんなあなたが元気になるの待ってるって言ってます」
「そっかぁ、うれしいな」
彼はほわりと笑う。
「ボクも早く帰ってきてほしいです……」
突然、頭をかき抱くように撫でられて陽美乃は思わず笑う。
「ビーノったらかわいいんだから。ご飯ちゃんと食べてる?」
「食べてますよ。なんでか、ルーチェが仕入れているお肉屋さんがボクのご飯を持ってきてくれるんですけど、頼んだんですか?」
「うん。心配でね」
「ありがたいですが、ルーチェのご飯の方がおいしいです」
彼はくすくす笑う。
「君のためにも早く退院したいな」
「退院してもしばらくは安静ですよ」
「料理くらいできるよ。目の手術をしただけだもの」
「料理以外はします」
「頼りにしてるね」
もう一度頭を撫でてもらってから陽美乃は帰宅の途についた。ルーチェの家は店の二階にある。届けられていた肉を食べ、毛づくろいをしてからルーチェのベッドにもぐりこむ。昨日も一人だったが、なんだか寂しくてなかなか眠れなかった。一人で過ごした夜などごまんとあるのに、どうしてそんな気持ちになるのか陽美乃にはわからなかった。
初めて人間に心を許してしまったなどと思いたくもない。ただおいしいごはんとあたたかい寝床が気に入っただけだと思いたい陽美乃だった。
三日後、ルーチェが退院して戻ってきた。経過は良好で欠けていた視界は戻らないまでも半分は戻ってきたと嬉しそうに言ったが、ルーチェはまだ眼帯をしていた。一日に使う時間を徐々に伸ばした方がよいという医師の助言によるものらしい。
陽美乃はルーチェがソファに座ったのを見計らって狐に戻り、膝に陣取る。彼はくすくすと笑った。
「いつも撫でさせてやってるっていうのに、今日は積極的だね」
「退院祝いの特別サービスだが、いらんなら降りるが?」
「ダメダメ、撫でる!」
頭を包み込むようにわしゃわしゃされ、そのまま尾まで丁寧に撫でられると陽美乃は気持ちよくなってルーチェの膝に伸びてしまう。撫でられるのが気持ちいいとは認めたくないが、そろそろルーチェの手は気持ちいいと認めてもいいかもしれない。
「はー、ヒビノが一番だよ。最高に癒されるもふもふ……顔をうずめていい?」
陽美乃はため息をついて腹を出す。
「今日だけ特別じゃ」
「ありがと」
彼は陽美乃の腹に顔をうずめ、尾をふわふわと握る。彼の呼吸に合わせて毛が揺れ、くすぐったい気持ちになったがこらえる。彼もきっと寂しかったのだろう。今日は退院祝いだから特別だ。
「ヒビノ、ちょっと痩せてない? この姿って完全に本性なんだよね?」
「ぬしの飯でないとうまくない」
何もかも一人でしていたからいつもより動いたせいで痩せたのかもしれないが、あまり食べる気になれなかったのも事実だった。
「あー、変なところでかわいいんだから! 今日の夕飯はたっぷりお肉焼いてあげるからちゃんと食べるんだよ?」
「わかっておる」
「動物はぽっちゃりくらいがかわいいよ」
「わしを動物扱いするでないわ!」
「うんうん、ヨウコだったね」
わかっているのかいないのか、ルーチェはヒビノを撫でる手を止めない。そもそも狐が喋っただけで大騒ぎになりそうなものをルーチェはびっくりしたの一言で片づけ、変化して見せてもすごーいと拍手を送った男だ。並の神経ではないのだろう。幻術が効かないのもそのせいかもしれない。
この撫でてくれる手が気に入り始めているとは断じて認めたくない陽美乃だった。
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