47人が本棚に入れています
本棚に追加
コトコトという料理の音や足音が聞こえてきて、陽美乃(ひびの)は朝が来たことを知る。ここに拾われてそろそろ半月が過ぎるが、家主のルーチェ・フォルティは彼を追い出そうという気はさらさらないらしい。人がいいのか、はたまた何か考えがあるのかはわからない。
陽美乃はぐっと伸びをして長い黒髪の美女に変化する。わけあって外国まで流れてきてしまったが、彼は九尾の狐だ。変幻自在に化けて幻術を使い、人をたぶらかす。ベッドでぬくぬくと眠り、もふもふと撫でまわされる存在ではない。
であるというのに、ルーチェは夜になればぬくぬくと抱きしめて眠り、暇さえあれば好き放題撫でてくる。さらに、ルーチェには幻術が効かない。だから、好奇心に駆られて、居座っている。行く先がないという訳では断じてない。
階段を優雅に下りていってシナを作りながらうるんだ眼もとで流し目を送る。
「ああ、おはよう、ヒビノ。今日はクール系美女なんだね」
いつも通り流されて、いたずらに唇を重ねる。
「あいにくとキスのサービスはしてないんだ」
当たり前に押し返され、陽美乃はため息をつく。いくらなんでもここまでなびかないのは面白くない。ほぼ毎日誘惑しているが、毎度完敗でそろそろ自信を無くしそうだ。
「このわしがサービスしてやっているというに喜ばんな」
「尻尾が九本もあるもっふもふの狐だって知ってるからね。狐の姿で撫でてってねだられたら喜ぶよ」
陽美乃はまたため息をついて九本の尻尾を出す。
「九尾の名折れじゃ」
ルーチェは先ほどとは打って変わって嬉しそうに尻尾に抱きつく。
「ああ、最高」
「好きにせい」
彼はバカらしくなってふわふわの耳が生えた少年に姿を変える。
「あ、こっちの方がいつもの美女とかセクシーなお姉さんとかよりよっぽどいいよ。かわいくて」
頭をわしゃわしゃと撫でられて悪い気はしないのだから困ったものだ。ルーチェの手はぽやっとした顔に反して少し大きく、ごつごつしている。カフェの店主でもある彼は力仕事もするせいか、のほほんとした見た目とは裏腹に引き締まった身体をしている。しゃがんだ彼に当たり前に膝に乗せられて陽美乃はため息をつく。
「ルーチェは幼形が好きなのか?」
「ヨーギョー? ああ、子供の姿がってことかな?」
「そうじゃ」
頭から尻尾の先まで撫でられるのが気持ちよくて陽美乃はついつい彼の手に頭をぶつける。
「うーん、子供は大人しい子なら好きだよ。ヒビノは中身が大人だから暴れないってわかるし、この姿、今までで二番目にかわいいよ」
「一番は?」
「化ける前の姿」
陽美乃は思わずため息をついて立ち上がり、大人の男性に姿を変える。
「まったくつまらん男じゃ。狐の姿以外になびかんとは」
ルーチェは肩をすくめてエプロンを外す。
「別になんだっていいじゃない。ほら、二階に戻ってご飯にしよ」
カウンターのトレーには少しだけ火の通された肉にソースがかけられたものが乗っていた。一人でカフェを切り盛りする彼は生肉をそのまま供してほしいという要望を飲んでくれない。そのソースも陽美乃がおいしく食べられるようにという配慮ではあるのだが、彼は少し不満だった。これでも完全に火を通され、付け合わせの野菜まであったころに比べればかなり改善されて来たのだが。
「生でよいと言っておろう?」
ルーチェは気にせず階段を上り始めた。二階の居住区にはキッチンがなく、いつも店の厨房で料理して二階の小さなリビングで食べるのが彼の習慣だった。店の席で食べてもいいのだろうが、落ち着かないのだという。
「君が自力で捕ってきたお肉だったら否定しないけど、市場で買えるお肉は生食用じゃないもの。仮にも人間の姿になれる君が食べるのは看過できなくてね」
陽美乃は小さくため息をついて、椅子に座る。三度三度きっちり食事を供してくれているのだ。あまり文句を言うものでもない。
目の前に置かれた皿に乗る肉は丁寧にも一口大に切られている。陽美乃は不器用にフォークを使って肉を口に運ぶ。フォークはこの国に来てから初めて使うようになったもので得意ではないが、近頃やっと慣れてきた。
「おいしい?」
ふわとほほ笑みながら問われて思わず笑みを返す。ルーチェはおいしいものを食べさせるのが好きなのだという。ただの生肉でいいという陽美乃の食事も毎回手間をかけてソースを作ってくれている。実際、ルーチェの料理はおいしい。肉も下ごしらえをしっかりしてくれているおかげでやわらかく、肉汁が滴ってくる。陽美乃は咀嚼した肉を飲み込んで口を開く。
「おいしい。ありがとう、ルーチェ」
「どういたしまして」
彼は幸せそうに微笑んで食事を始めた。ルーチェの朝食はいつも変わらない。サラダとバターの塗られたトースト、目玉焼き、少しの果物だ。人に食べさせるときは飽きないように工夫を凝らすが、自分が食べる分には栄養バランスさえ取れていればいいというスタンスらしい。
「わしが店を手伝うというたらうれしいか?」
ルーチェはきょとんとした顔をした。彼のカフェは一人で切り盛りしている小さな店だが、相応に繁盛していて忙しい。けれど、彼は人を雇うということをしていなかった。彼の食材へのこだわりが強く、人を雇えるほど稼ぎがないせいだという。
拾われたばかりのころは店の隅で寝ていたから、彼が忙しいのは陽美乃もよく知っていた。それに彼が人を雇わないのは他にも事情があるのは薄々気付いていた。彼は右目を眼帯で覆っている。その治療にもお金がかかっているから、彼はあまり豊かではないのだろう。
「えっと……すごくうれしいし、ありがたいけど、給金はそんなに出してあげられないよ?」
「恩義を返さぬほど薄情ではない。飯を食わせてくれれば給金はいらぬ。ウェイターがいいか? ウェイトレスか?」
「君の好きな方で。毎日同じ姿にしてほしいなって思うけど」
「ふむ……」
陽美乃は少し考えてから、ルーチェに似せた若者に姿を変える。ふわふわのくせ毛に緑の垂れ目、ぽってりとした唇は少し薄くした。
「これでどうじゃ? 縁戚に見えるであろう?」
「なんで親戚に見せようとしたの?」
「この国のものの顔の情報が乏しく、不自然にならないようにしたのじゃ」
「なるほどね。いつもエキゾチックだったもんね」
陽美乃は常に化ける姿を膨大な情報をもとに作り出している。だが、この国に来た時点で変化できないほど疲れ果て、ルーチェに拾われたきり、それほど外に出ていなかった。だからオリジナルで自然に見える顔を作り出すのは難しいと判断してルーチェの顔をアレンジしたのだった。
「それでいいよ。名前はヒビノをもじってビーノにしよ。ヒビノじゃ浮いちゃうからね」
「ふむ、よかろう」
九尾の狐である彼には偽名も偽りの顔も身近なものだ。陽美乃は茶色のくせ毛を軽くかき上げる。似過ぎないように髪型は少し変えた方がいいかもしれない。
「そう言えば、君っていつも美男美女に化けるけど、好きなの? 今もきれいに整えてるような……」
「人間がそういうものを好きだからそう化ける。それに美人の方が化けやすい。わしの幻術が効かず、美女の姿で誘惑しても喜ばなんだのはルーチェが初めてよ」
「ふぅん、そうなんだ。僕、おかしいのかな?」
ルーチェが小首を傾げるのを見て陽美乃はくと笑う。狐の姿で喋ってもびっくりしたの一言で片づけ、変化して見せてもすごーいと拍手した男が変わっていないとは言えないだろう。
「両の目が開いておらぬせいやも知れぬな」
ルーチェは右目を覆う眼帯に触れる。
「治ったら君の幻術にかかっちゃうのかな?」
「さてな。早く良くなるとよいな」
「ありがと」
ふと笑った彼の緑の目はいつもまろい。そんな目を見ると胸の奥がざわざわする理由が長く生きている陽美乃にもわからなかった。
最初のコメントを投稿しよう!