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 黒髪の乙女を喫茶「ミエル」で初めて見た日からちょうど30日後、令和4年10月3日に僕たちはまた出会った。しかし今回は喫茶「ミエル」ではなく、大学の図書館だった。暇を持て余していた僕は、ボランティアで大学図書の仕事を手伝っていた。といっても本棚に本を戻したり本を貸し出したりするだけの仕事だった。大半はただ、ぼーっと本を読むか、レポートに勤しむ学生を見ているだけだった。その日の僕も一通りの仕事を終え、彼らを観察していた。その時に彼女が話しかけてきたのである。 「すみません、英語版の『ライ麦畑でつかまえて』はどこにありますか?」と彼女は言った。この時、僕は彼女のことを覚えていなかった。 「英語版の『ライ麦畑でつかまえて』ですか…すこし待ってください。」と僕は言い、コンピュータで『The Catcher in the Rye』と調べた。 「どうやら地下4階の書庫にあるようです。」と僕は言った。 「地下4階ですか…」と彼女は言って困った顔をしていた。  図書館は3階建てで、国立国会図書館のような大きい印象を始めは受けない。しかしこの大学の図書館の本当の姿は、その地下1階から4階まで広がる大きな書庫であったのだ。しかし普段図書館など利用しない学生はこの事実の片鱗も知らず卒業していく。  そしてどうやら彼女もその他大勢の学生と同じ様に、この図書館の全貌を知らなかったらしい。 「案内しますよ」と僕は良心からくる善意に従い、勇気を振り絞って言った。決して見返りなど求めていない。 「ありがとうございます、でも大丈夫ですか?ここを離れて、」と彼女は言った。 「大丈夫です。どうせ暇ですから」と僕は言った。  それから彼女と二人で受付を済ませ、アリの巣のような書庫に足を踏み入れた。 「図書館の地下にこんなに本があったなんて…」と彼女は感動したようだった。確かにこれほどまでの蔵書はそこら辺の区立図書館では太刀打ちできないほどであると言わざるを得ない。 「おそらくここら辺にあるはずです。」地下4階に着いた我々は、英語版『ライ麦畑でつかまえて』を探していた。普段滅多に人が入らないため書庫はしんと静まり返っていた。僕は退屈な日々に訪れたやや非日常的異性接触による胸の高鳴りが、彼女に聞こえないか心配になった。  僕は彼女をその横目に意識しながら、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を探し出すことに成功した。赤い馬が表紙に描いてあり、裏にはJ・D・サリンジャーの顔写真があった。 「ありました」と僕は見つけ出した英語版『ライ麦畑でつかまえて』を彼女に差し出した。 「ありがとうございます。」と彼女は軽い会釈をして言った。 それからまた階段をのぼり、地上に戻った。その間に僕たちは何の会話もしなかった。彼女はその本を大事そうに抱えていた。地上に上がって僕がその本の貸し出し作業をしていると、 「ライ麦畑は読んだことありますか?」と彼女は僕に訊いた。 「ええ、三、四年前に」と僕は言った。 「どうでした?」と彼女はまた僕に訊いた。 「この本は十七歳の僕にとっての、バイブルでした。」 「好きだったんですね」と彼女は少し笑いながら言った。「私も好き」と彼女は言った。  この時、僕は彼女が「ミエル」で見た黒髪の乙女であることに気がついた。そして僕は彼女に夢中になりそうになった。だってたまたま喫茶店で見た女の子が、たまたま図書館にやってきて一緒に本を探すなんていうロマンチックで運命的な出来事が起こって、気が合うなんて言われたら誰でもそうなると思う。 「またどこかで」と彼女は言った。 「いつでもここに」と僕は言った。  彼女は少し微笑んで、図書館を後にした。  彼女が去った後に、僕は彼女のことを考えざるを得なかった。彼女は『ライ麦畑でつかまえて』を原文で読む。それだけで十分魅力的だ。だってそんなウィットに富む女の子を見たことがない。  家に帰ってから、僕は本棚に並んであった村上春樹訳の『ライ麦畑でつかまえて』を読み直した。ホールデンのクリスマスの話だ。何度も読んだ彼の言葉は、僕の言葉だ。 ◯  ライ麦畑の彼女のことを、黒髪の乙女のことを考えると、僕の中にはどうしても高校の元クラスメイトの女の子を思い出した。男が恋する時はどうしても過去の恋を考えてしまうのだ。  元クラスメイトの彼女の名前は、アヤといった。  アヤは高校三年間を片想いで終えた。アヤが好きだった男は、僕ではなかった。片思いの男は背が高く、頭がよく、顔立ちも整っていた。そいつは男から見ても魅力のある男だった。僕じゃほとんど何も勝ててはなかったと思う。だからと言って、僕は彼のことを憎んでも恨んでもなかった。それどころか僕はそいつのことが気に入っていた。学校でもまともな方の感性の持ち主だったからだ。  兎にも角にもアヤは、その男に惚れていた。どうしようもなく惚れていた。僕はバレンタインデーにアヤが彼にチョコレートを渡し、彼女が泣きながら廊下を走るのを目撃した。昼休みだったので多くの人がその姿を見ていたので、僕もその一人に過ぎなかったが、僕はとても大事な、女性のとても大事な部分を見てしまった気がした。それが何なのか僕には分からない。  僕はアヤの恋愛相談によく乗った。僕がアヤとアヤが惚れている男の両方と仲が良かったからだ。でも僕はその話をされるたびに、とても悲しくなった。でもそれでも僕は自分に嘘をついてでも、アヤの幸せを祈る他なかった。だから多くのアドバイスをした。彼女も彼に好かれるために努力していた。しかし、とうとうアヤは彼を振り向かせることはできなかった。卒業後にたった一度のデートをして、アヤは彼を諦めた。 「一度デートに行ってね、気づいたの、彼の魅力の無さとか意地悪さに。それにもうR大学の子と付き合っているみたいだし。」と彼女は僕に愚痴をもらすかのように言った。それでも僕はアヤが彼のことを話すことが嫌いだった。 僕はこれまで100人以上の女性と出会ってきた。そのうち90人は僕に「あなたの顔なんか2度と見たくない」と言った。残りの10人は何も言わず、僕の元から去っていった。アヤはその数少ない女性の一人だった。  僕は女々しい人間なのだ。時々アヤを思い出すと、どうしても悲しくなった。でももう終わってしまった恋だ。僕は明日も図書館に行ってみようと思った。ライ麦畑の彼女に会えたら、いいなと僕は思いながら眠った。 ◯  それから僕は毎日図書館に居座った。手伝いをしていない日も図書館で本を読んで、時間を潰した。しかし彼女は一週間、図書館には来なかった。『ライ麦畑でつかまえて』の返却期限は二週間だったので、あと一週間以内には来るはずだ。それから僕は毎日欠かさずに図書館に通った。大学に毎日来たことは入学して初めてのことで、それはそれで新鮮だったが、僕の気を重くさせたのも確かだ。  彼女が図書館に来たのは、『ライ麦畑でつかまえて』の返却期間最終日の10月17日のことだった。  彼女が入り口からカウンターに向かってきた。彼女はとてもキュートだった。彼女の着ている秋らしい赤いセーターと短い黒髪とのマッチアップには、誰も文句は言わないだろう。 「あっ、この前の」と彼女は言って僕を見た。 「どうも」と僕は言った。僕はできる限り平然を装った。 「ここで返せば、いいんですか?」と彼女は訊いた。 「ええ、大丈夫です」 「ありがとう。」  僕たちの間には不思議な時間が流れていた。それはヘラクレイトスが言った万物流転を、時間というどうしようもない川の流れに逆らう、若く、何者かに愛されたいという根源的な欲求によるものだった。 「あの、もし良かったら、どこかでお茶でも飲みませんか?」と僕は彼女を見つめて言った。この言葉を言うのに僕は数時間もかかったような気がした。 「もちろん」と彼女は小さく言った。まるでそれを待ち望んでいたかのように、そしてまるでそれが数千年も昔から決められていたかのように言った。
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